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青山祐の暗黒小説
   「殺人鬼以外お断り」

   一

 わたしがその店と出会ったのは、意識に薄い膜が張り始めた深夜。友人と飲みに出掛けた夜の出来事だった。それが何軒目の店だったのかは覚えていない。喧しい音楽が鳴り響くバーとも呼べないような店を出ると、わたしは友人と肩を組みながら夜の街を彷徨っていた。

「よーし。次はどの店にするか」
 足取りをふら付かせながら水木が言う。前の店を出た時とまったく同じ台詞だとわたしは思った。
 水木とは大学時代からもう十年来の付き合いになる。その頃から水木は何かとわたしを飲みに連れ出していた。その仲がいまだに続いているのだからまさに腐れ縁だ。
 学生時代、空手の全国大会にまで出場した経験を持っている水木は、揉め事の起きやすい繁華街では頼りになる存在だった。これまで何度もチンピラや酔っぱらいにからまれることがあったが、彼のおかげで切り抜けてきたことも多い。
 わたしたちは先ほどのバーからさらに裏道へと入った。この通りには街灯もまばらにしかない。大通りにはまだそれなりに人通りがあったが、一歩裏道に入っただけでこの街は姿を変える。
 路肩に男が倒れているのが見えた。どうせ酔っ払いかホームレスだろう。街頭の影に隠れて男の姿はよく見えなかったがそう思った。野良犬が倒れている彼の匂いを嗅いでいる。食い物でも持っていないか探しているらしい。それでも男は倒れたまま動かなかった。
 水木が調子はずれの歌を歌い始めた。学生時代に流行っていたロック歌手のものだ。彼は気分が良くなるといつもこの曲を歌う。失恋の痛手なんて忘れてしまえ、とその歌は言っていた。人生には色んな楽しみがあるさ。
 特に目当ての店があるわけではなかった。近くに行き付けの店もいくつかあったが、通い慣れた店には新鮮味がない。新しい店を開拓するのがわたしたちの楽しみなのだ。
 場末のスナックが軒を連ねた通り。厚化粧をした女が赤ら顔の男を見送っていた。またいらしてね、と女は言うと脂ぎった頬にキスをした。男が満更でもなさそうな顔で歩き出す。通りへ出てタクシーでも拾うつもりなのだろう。
 もちろんそんな店にわたしたちは興味がなかった。いい店というものは、入る前に雰囲気で分かるものだ。
 裏道は入り組んでいて、酔った頭ではどこを歩いているのか段々と分からなくなってきた。目ぼしい店が見当たらず、まるでずっと同じ道を歩いているような気さえしてくる。 
 そんな時、一軒の店が眼に入った。
「あの店なんていいんじゃないか」
 わたしはその店を指差しながらそう言った。
 窓はなくシンプルな作りだった。壁は薄汚れて茶色く見えるが、もしかするともとは白い壁だったのもしれない。
 あまり目立つような店ではなかったが、わたしはその店にどこか惹かれるものを感じていた。人をわざと寄せ付けないような雰囲気。そんなところが気に入ったのかもしれない。
 入り口の上のネオンは英語で書かれているようだが、字体が特殊でほとんど読み取れなかった。唯一、分かったのはBARという単語だけ。だがそれだけ分かれば十分だった。酒を出す店なのは間違いないのだから。
「よし、あそこに決まりだ」
 水木があっさりと承諾する。もともと彼は考えてから行動するようなタイプではない。気持ちの赴くまま、自由気ままに振舞う。彼のそんなところをわたしは気にいっていた。
 水木が店の入り口に歩み寄った。だが扉に手は掛けず立ち止まったままだ。何かあるらしい。わたしが水木の背中越しに覗き込むと、扉に張り紙が貼られているのが見えた。
 この店が出来た当初からあるのかもしれない。そう思わせるほどに古びた紙だ。しかもところどころ破れている。書かれている字もかなり擦れていたがなんとか読み取れた。

 殺人鬼以外の方のご入店はお断りします。

 張り紙にはそう書かれていた。
 どういう意味だ。何かの趣向だろうか。
 わたしが張り紙の意味を考えながら見つめていると、水木が言った。
「これってつまり、殺人鬼以外は入るなってことだよな?」
 たしかにこれはそうとしか読めないだろう。だが、殺人鬼以外入れない店なんてあるのだろうか。
 そういえばこの辺りは殺人事件が多かったな、とふとそんなことを思った。だがもちろんこの店と関係あるはずはない。
「単なる客引き文句だろ」
 わたしはそう結論付けた。
「ま、そりゃそうだよな」
 そう言うと水木が店の扉に手を掛けた。相変わらず行動の早い男だ。樫で出来ているらしい重厚そうな扉がギィと音を立てて開いた。
 店内には薄暗い照明が灯されていた。右手にカウンター席が数脚あり、奥はテーブル席になっている細長い造りだ。だが店内に飾られたいくつもの品々がこの店に特別な雰囲気を作り出していた。
 入り口のすぐ隣に、まるで出迎えるかのように完全武装した西洋の騎士の鎧が仁王立ちしている。先に店の中に入ったわたしは、それが眼に入ると驚いて腰を抜かしそうになった。転びはしなかったが、一歩後ろに下がったわたしの背が水木の胸にぶつかる。
「おいおい。大丈夫か」水木は何でもないような顔で店内に入ると、鎧をコンコンと手の甲で叩いた。「ただの人形さ」
 水木はさっさとカウンター席へと向かった。初めての店ではカウンターに座るのがわたしたちの慣習だ。
 奥のテーブルにも何人か客がいるようだったが、カウンターには誰も座っていなかった。わたしも水木の後に続いてカウンターへと向かう。だが眼は店内の異様な光景に釘付けだった。
 カウンターの向こうの壁に、様々なマスクが飾られている。映画で有名なジェイソンの仮面や、オペラ座の怪人と思われる仮面、拷問吏が使うような鉄仮面もあった。
 わたしたちはカウンター席の中ほどに並んで腰掛けた。カウンターの中では、この店のマスターらしき、初老に差しかかった年齢の男がグラスを磨いている。
「いらっしゃい」
 ちらりとわたしたちに眼を向けてマスターが挨拶した。
 マスターは百八十近い長身の持ち主だった。顔の左半分の皮膚が火事にでも遭ったらしく焼け爛れ、引き攣れている。そんな彼の姿はこの店の雰囲気にぴったり合っていた。
 わたしはマスターにブランデーの水割りを、水木はウィスキーをロックで頼んだ。マスターがグラスを鳴り合わせる音が店内に響く。
「なかなかいい雰囲気の店じゃないか」
 水木はこの店を気に入ったらしい。
「そうだな」
 わたしはそう答えるしかなかった。
 どうやらこの店は特殊な趣味の人間が集まるバーのようだった。これまでにも何度かこういった店に入ったことがある。
 いつだったか、監獄をモチーフにしたバーへ行ったことがあった。通されたテーブル席は牢の中にあり、店員は皆、看守の服を着ていた。つまり、客は囚人なわけだ。
 オーダーが決まったことを知らせるボタンがテーブルに置かれていて、それを押すと壁に取り付けられた回転灯が回り出しアナウンスが流れる。
『2894番が脱走』
 アナウンスを聞いた看守はその番号の書かれたテーブルへと向かい、牢を警棒で叩いて言うのだ。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 台詞とのギャップが面白く、わたしたちはその店を気に入っていた。だが生憎その店は人気があり、いつも満席なため予約しないと入れない。
「見てみろ」そう言って水木が眼を向けたのは、背後の壁に飾られた一振りの斧だった。「まるでたった今使ったばかりのようじゃないか」
 彼の言うとおりだった。斧の刃が血に濡れたように赤く染まっている。演出なのか後ろの壁にまで染みのように赤い塗料が塗られていた。
「随分、凝ってるな……」
 わたしはそう声を漏らした。するとその言葉を聞いていたらしいマスターが喜色を浮かべて言った。
「そうでしょう。ここに来られる殺人鬼の方は皆さんそうおっしゃいます」
 わたしたちはマスターの言葉に笑いを噛み殺した。ここもいつかの監獄バーと同じで役柄になりきっているらしい。
 カウンターに酒の入ったグラスが置かれ、わたしたちは乾杯を交わした。
 今日何度目になるか分からないが、乾杯することに意味は無かった。わたしたちにとってそれは飲み始めるという合図なだけだ。

   二

 何杯か空けた頃、奥のテーブルから若い男がわたしたちの席へと近づいてきた。
 その男は髪を派手な色に染め、耳や鼻にいくつものピアスを付けていた。若者の軽薄な格好は特に珍しくもないため、わたしは彼が近づいてきても関心を寄せなかった。しかしピアスは馴れ馴れしく水木の隣の椅子に腰掛けると声を掛けてきた。
「おっさん達、この店は初めてかい?」
 ピアスの言葉には、初対面の人間に対する敬意が欠片も見当たらなかった。わたしは少しムッとなったが、水木が彼と親しげに会話を始めたので抑えることにする。
「ああ。君は常連なのか?」
 水木が尋ねた。
「毎日のように来てるぜ。この店に通うことは殺人鬼の一種のステータスだからな」
 自慢げなピアスの言葉に、わたしと水木は冗談を言われたと思い軽く笑った。どうやらこの店では誰もが殺人鬼になりきって会話を楽しむのが趣向のようだ。
「へえ。じゃあ君も殺人鬼なわけだ」
 水木がピアスに向かって聞いた。話を合わせてやるつもりらしい。
「もちろんさ。数えちゃいないがこれまで三十人ぐらいは殺ってきたかな。マスターなんて、町が一つ地図から消えるぐらい殺ってんだぜ」
 話を聞いていたらしいマスターが、カウンターの向こうでニヤリと笑って言った。
「昔の話ですよ」
 わたしはその笑みにどこか不気味なものを感じた。かなり年季の入った演技だと感心する。
「マスターには敵わないが、俺だって捨てたもんじゃないぜ。ま、こいつを見てくれよ」
 そう言うと、まるで手品のようにピアスの手にナイフが現れた。ピアスは刃をわたしたちに見せ付けるようにして腕を伸ばす。
「いいナイフだろ。闇に流れていたところを二百万で手に入れたのさ」
 ナイフは刃の長さが十五センチほどで凶悪な曲線を描いていた。よく手入れされているらしく、刃こぼれも無い。ピアスがそれを大切にしていることが窺えた。
「しかもこいつには昔切り裂き魔が使ってたっていう曰く付きなんだぜ」
 それを聞いてマスターが笑う。
「お前偽者を掴まされたな。確かにそこそこいい品のようだが、ジャックが使ってたナイフはそんなもんじゃなかった」
 マスターの言葉にピアスがぐっと呻いた。
「いいんだよ。俺はこのナイフを気にいってんだから」
 不貞腐れたようにそう言うと、ピアスの手にあったナイフはまた何処かへ消えた。
「マスターこそその顔の火傷はどうしたんだ? あんたほどの人が何かヘマでもやったのかい?」
 ピアスが仕返しのつもりかそう尋ねた。わたしはどんな話が出てくるのかと興味を覚え、マスターの言葉を待った。
 その時、入り口の扉が開くギィという音が鳴った。誰かが店に入ってきたらしい。
 扉に眼を向けると、店内に入ってきた人物は二人連れの若い男女だと分かった。かなり酔っているのか足元が覚束無い様子で、女の方は男に凭れ掛かるような姿勢になっている。二人は眼を彷徨わせるように店内に向けたが、ひとまず入り口近くの席へと落ち着いたようだ。
 マスターが話を中断して新たな客へと向かう。火傷の話はまたの機会のようだ。わたしは小さなため息を漏らした。
 二人がマスターに頼んだのは、若者が好みそうなカクテルだった。
 ピアスが突然、席を立った。新たな獲物を見つけたように、二人のいる席へと近づいて行く。わたしはあまりに馴れ馴れしいピアスの態度に不快感を覚えていたため、他の席へと移ってくれたことに安堵した。
「あんたたちは何人ぐらい殺したんだい?」
 彼らの会話が耳に届く。
「は? 何なんだあんたは。邪魔しないでくれないか」
 ピアスのあまりに不躾な態度に、若い男は気分を害したようだ。細身のスーツを着こなしている姿は営業マンのようだった。
「なぁに? この人誰?」
 連れである若い女が、まるで小さな子供のように舌ったらずな声でスーツの男に尋ねた。女は夜の商売を生業にしているらしく、胸が大きく開いたブラウスに、短いスカートという派手な格好だ。
「ただの馬鹿さ。気にしなくていい」
 ピアスの神経を逆撫でするようにスーツが言った。女の前だからと強気に出たのかもしれない。
 だがその言葉を聞いたピアスは、先ほど見せたナイフをまた素早く手の中に取り出した。
「誰が馬鹿だって?」
 そう言うピアスには、まるで今にも切りかからんばかりの凄みがあった。まるでヤクザのようだとわたしは思った。
 バーでの揉め事はよくあることだ。ヤクザ絡みの場合、大抵は刃傷沙汰にまでなることはない。彼らが刃物を出す時は、本当に殺すか殺されるかの時だけだからだ。
 刃物を出した時のヤクザと同じ気配を、今のピアスは放っていた。その剣幕に押されたようにスーツがたじろぐ。
 そこにマスターがピアスを一喝する声が響いた。
「待て! 店の規則を忘れたわけじゃないな?」
 そう言ってマスターが顎をしゃくった先は、入り口の隣にある壁の一角だった。今まで気づかなかったがそこにも張り紙が貼られていたようだ。わたしも張り紙へと眼を向ける。そこに書かれていた内容は信じがたいものだった。

 以下の店内規則に違反した者は店長が殺害します。

一、店内で殺人鬼同士が殺し合いをしてはならない。
二、店内で銃器、火器を使用してはならない。
三、店内の一般人は誰が始末しても構わない。但し、血で店内を汚してはならない。

 ここまで徹底しているとは。わたしは驚きに眼を瞠った。余興にしては少しやりすぎではないだろうか。
 ピアスはそれを見て少し落ち着きを取り戻したらしい。スーツへと向けていたナイフを下に降ろした。
「殺るならまずお客が殺人鬼かどうか確認しろ」
 マスターがピアスに諭すようにそう告げた。わたしと水木は真面目な顔で続けられる二人のやり取りにただ呆然とするだけだった。
「分かったよ」
 ピアスは口の端を吊り上げ、笑顔でスーツに向き直った。
「すみませんが、お客様は殺人鬼でいらっしゃいますか?」
 いやに馬鹿丁寧な口調だった。スーツはピアスの笑顔に何か不吉なものを感じたのか、答えずに女の方へと顔を向けた。
「また別の店で飲みなおそう」
 スーツの男が女の手を取った。席を立ちそのまま店の出口へと歩き出す。その背にピアスが声を掛けた。
「ああ、それでもいいぜ。外でだったら気兼ねなく殺れるからな」
 さすがにその言葉をスーツは無視できなかったようだ。ピアスへと向き直り、怒りを爆発させる。
「いい加減にしろ。これ以上絡むようなら警察を呼ぶぞ」
 スーツがそう言った瞬間、わたしの目の前にありえない出来事が起こった。
 ピアスが手に持ったナイフを、軽く振る。本当に軽く振ったように見えたナイフだが、その結果、スーツの頭が滑らかな断面を見せて首から落ちた。まるで初めから首と胴が繋がっていなかったとでもいうように。力を失ったスーツの体は女を道連れにして床に倒れる。
 わたしと水木は目の前の光景に声も出なかったが、女は倒れた衝撃で酔いが覚めたようだ。悲鳴を上げ、死体から這うようにして離れる。だが彼女が向かったのは扉とは反対の方向だった。慌てていたのかもしれない。
 ピアスがゆっくりと女を追い詰めるように歩き出した。彼女の顔はこれから殺される恐怖に歪んでいる。何かを求めるように彷徨わせた視線が、わたしたちを捉えて止まった。
「助けてっ!」
 女が叫んだ。わたしたちへと助けを求めたのだ。
 これほどの騒ぎになっているにも関わらず、奥のテーブルからは誰もやって来なかった。たしかに客が何人かいるはずなのに。こんな騒ぎはここでは日常茶飯事なのだろうか。
 女の声を聞いて、ピアスはわたしたちの存在を思い出したらしい。笑顔でこちらを振り向くとこう言った。
「おっさんたちも殺るかい?」
 どうやら彼はまだわたしたちのことを同じ殺人鬼だと思っているらしい。わたしは何か答えなければと思いつつも声が出なかった。女がこの隙に逃げ出そうと、そっと扉へと這い始める。だがそれは叶わなかった。
 女の頭をピアスが後ろから掴んでいた。わたしたちに殺すところを見せびらかすつもりなのか女の首を仰け反らせる。その首筋に今度はゆっくりとナイフを当てた。
「殺人鬼以外の人間が店にいるのはおかしいよな」
 独りごとのようにピアスはそう言うと、わたしたちの方を見ながらナイフを滑らせた。彼はわたしたちが殺人鬼ではないことに気付いたのだろうか。
 女の喉が掻っ切られた。皮一枚残して大口を開けたように喉が開く。そこから噴水のように血が噴き出し、わたしたちのいるカウンターにまで飛び散った。
 その時、ピアスの後ろに大きな影が見えた。
「また、やってくれたな」
 いつの間に移動したのか、マスターがピアスの後ろに立っていた。マスターは、ピアスのナイフを持った腕を掴み、捻り上げた。
「な……なんだよ。俺は確認したじゃないか。殺人鬼なら警察なんて呼ぶわけないだろ」
 ピアスはそう弁解しつつも、掴まれた腕を必死に振り解こうとしていた。だがマスターの腕には尋常でない力が込められているらしく、びくともしていない。
「但し書きを読めといつも言ってるだろう。こんなに店を汚しやがって」
 マスターが更に腕に力を込めた。
 マスターの表情は何も変わっていなかったが、限界以上に捻られたピアスの腕が、鈍い音を立て、曲がるはずのない方向を向いたことでそれが分かった。マスターにとってピアスの腕を折ることなど、赤子の手を捻るも同然なのだろう。
 ピアスが情けない悲鳴を上げる。そこに先ほどまでの威勢の良さは見る影もなくなっていた。
「いいか、今度店を汚したらこんなもんじゃ済まんぞ。死体は片付けとけ」
 ようやくピアスの腕を解放すると、マスターはカウンターの中へと戻っていった。
 痛えよお、とピアスは子供のように喚いていたが、マスターが黙れと一喝したため口を閉ざした。
「どうもすみません。お見苦しいところを……」
 カウンターに戻ったマスターはわたしたちへ向けて謝罪した。わたしと水木はまだ呆然としていた。
「い、いえ大丈夫です」
 わたしはなんとかそう答えると、震える手でグラスを呷った。だが酔いは頭からすでに追い払われていた。
 ここは本当に、殺人鬼の集まるバーだったのだ。
 殺人鬼ではないと気づかれる前に、この場から逃げ出さなければ。わたしの頭はその事しか考えていなかった。
 声をかけようと水木の方を見る。彼は呆けたような表情のまま、床に倒れたままの二つの死体を見つめていた。
 これは駄目だ、とわたしは思った。
 もしかして水木ならこの場を上手く切り抜けてくれるんじゃないかと一抹の期待をしていた。だが今の彼の姿からは、到底それを期待出来そうもない。 
 水木に声をかけると、はっと気づいたかのようにわたしへと顔を向けた。
「な、何だ今のは。一体どうなっているんだ」
 水木はパニックに陥っているようだった。普段の彼からは想像出来ない取り乱しようだった。逆に彼がパニックに陥っていたことが、わたしの冷静さを保っていたのだろう。
 声を押し殺して水木に言う。
「落ち着け」
 だが彼は状況をまったく理解していなかった。
「これが落ち着いていられるか。人がたった今、目の前で殺されたんだぞ」
 もう駄目だと思った。
「おや、そちらの方はどうかなさいましたか?」
 案の定、マスターが訝しげにそう尋ねてくる。
「いえ、なんでもありません」
 わたしはそう答えたものの、もはや無駄なことを悟っていた。
 どうすればいい。
 今のわたしたちは猛獣の檻に迷い込んだ鼠のようなものだ。一度襲われたらもう助かる方法はない。
 いや、本当にそうだろうか。
 わたしの頭にある考えが浮かぶ。だがそれはとても実行出来るようなものではなかった。しかし、他に方法がないことも確かだ。
 わたしは覚悟を決めた。
「ところでお二人はこれまで何人ぐらい殺されたんですかな?」
 マスターが獲物を見定めるようにそう尋ねた。水木が何か言おうと口を開ける。
 その瞬間。
 わたしは壁に掛けられた斧を手に取ると、渾身の力を込めて水木の頭に振り下ろした。思ったよりも軽い手応えで水木の頭が縦に割れる。椅子から転げ落ちた。血と脳漿が床の上にばら撒かれた。
 はぁ、はぁ、という自分の呼吸音だけがやけに鮮明に聞こえた。わたしは二度と動かなくなった友人を見下ろす。
 水木は死んだ。
 わたしが、殺したのだ。
 白く濁った水木の眼がわたしを睨みつけていた。だがそれはどこか現実感のない光景だった。
 人はこんな簡単に死ぬのだ。
 その当たり前の事実が、不思議とわたしを落ち着かせていた。
 荒くなった息を整えながら顔を上げる。先ほど水木が言うはずだった答えを、わたしは代わりに口にした。
「これが、一人目です」
 マスターのがっかりした顔が見えた。

   三

 仕事を終えたわたしは、いつものようにバーで疲れを癒やしていた。店内は馬鹿騒ぎする若者たちで溢れている。カウンターを挟んだ向かいでは若いバーテンダーがカクテルをシェイクしていた。今流行りのショットバーというやつだ。
 ボトルをキープすることなく、ワンショットごとに切り売りする。手軽く酒を楽しむためのバー。わたしの好みではなかったが、ここへ来たのは酒のためだけでなく他にも目的があった。
 グラスを傾け喉にアルコールを流し込む。
 仕事の後の一杯はまた格別だった。だがわたしが今、こうして酒が飲めるのも水木のおかげなのだ。
 あの殺人鬼バーの夜、わたしは殺されなかった。水木を殺したことで殺人鬼だと認められたからだ。
 水木の死体を置いて、わたしは逃げるように店を後にした。店内を水木の血で汚したことは問われなかった。きっとあのピアスの男が掃除させられるのだろう。
 翌日の新聞には、水木のことはもちろん、他の二人の男女についても何の記事にもなっていなかった。行方不明者の記事もなく、まるであの店で起こったことが別世界での出来事のように思えた。だが水木の頭に斧を振り落とした時の感触はまだわたしの手に残っており、それがまさしく現実であることを教えていた。
「ここ、いいかしら?」
 その声が物思いに耽っていたわたしを現実へと引き戻した。返事を待つことなく隣の席へと女が腰掛ける。
 わたしはそちらをちらりと見た。なかなかいい女だ。
 歳は二十代の半ばだろう。男が十人すれ違えば、そのうち八、九人は振り返るような美人だ。化粧は薄いが効果的に自分の魅力を引き出している。憂いを帯びた眼差しが蠱惑的だった。白い首筋のラインにもそそられる。
 女に連れはいないようだった。まさに絶好の獲物だ。
「一杯奢ろうか」
 わたしさりげなくそう尋ねた。男に声を掛けられることに慣れているのだろう。女は薄い笑みをその整った口元に浮かべた。
「あら、もしかして誘ってるの?」
 艶っぽい声でそう問いかけてくる。
「そのつもりだが」
 真面目な顔でわたしは答える。
 ふふっ、と悪戯っぽく女が笑った。
「いただくわ」
 交渉成立だ。
 わたしは女の気に入りそうな話題をいくつか口にした。彼女は関心無さそうな素振りで聞いていたが、酒が進み次第に頬が上気してくるのが分かった。
 頃合いを見計らってわたしは言った。
「近くにいい店があるんだ。そこで飲み直さないか?」
 返事はなかなか返ってこなかった。迷っているのだろうか。だがここで焦りは禁物だ。答えをじっと待つ。
 女がわたしに顔を寄せた。彼女の吐息がわたしの首筋を撫ぜる。
 女はそっと呟くように言った。
「……いいわよ」
 ここまで来ればあとはこっちのものだ。
 すでにバーテンへの支払いは済ませてあった。女を連れて店を出る。
 街は昼の顔を脱ぎ捨て、混沌とした夜の顔を見せていた。無数の人々が通りを行き交っている。彼らは何を求めてこの街に集まってくるのだろうか。
 だがわたしはこの街の雑然とした雰囲気が嫌いではなかった。火照った体に夜風が気持ちいい。
 気分の良くなってきたわたしは、ふと自分が鼻歌を口ずさんでいることに気が付いた。水木がよく歌っていたあの歌だった。
 いい曲ね、と女が言った。これから訪れる自分の運命を彼女はまだ知らないのだ。
 わたしは上着のポケットに入れた一振りのナイフを握り締める。
 まったく、人生には色んな楽しみがあるものだ。

     (了)

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