青山祐の書いた暗黒小説を公開しています。

青山祐の暗黒小説
     「死がわたしを分かつまで」

     一

 帰りにケーキ食べに行かない? と、九条サキが訊いてきた。
「ごめん、今日は家の手伝いがあるから……」
 わたしは申し訳なさそうに答える。本当は行きたかった。でも、今日は月に一度の大事な行事の日で、絶対にすっぽかすわけにはいかなかった。
「そう……」
 サキが残念そうな顔をする。彼女とわたし――浦木アスカは中学校の時からの付き合いだ。高校も同じ学校に進み、三年生になった今もわたしにとって一番の親友だった。
「また誘って」
 わたしはそう言って、机の上に広げていた教科書や筆記用具を鞄の中に仕舞い込む。
 まだ初学期が始まったばかりの四月。春の日差しが窓から差し込んで、教室の中は暖かい。放課後の教室に残っているのは、これからどこに行こうか話している女子の姿ばかりだった。男子のほとんどはクラブ活動をしていて、終業のチャイムが鳴るとすぐに教室を出て行く。女子のほとんどは仲の良いグループができていて、わたしとサキはどこにも属さない、無所属的な存在だった。
 サキは引っ込み思案だから、どちらかといえばわたしが引っ張っていくことが多い。二人で何を食べようか悩んでいる時は大抵わたしの意見で決まるし、何をするにもほとんどをわたしが決めている。それでもサキはそうした自分の立ち位置を嫌がっている様子はなくて、一人っ子の彼女はわたしのことを姉のように慕ってくれていた。わたし自身、サキのことを妹のように思っている。
 だから彼女に隠し事をしていることが心苦しかった。
「ねえアスカ」
 教室を出ようとしたわたしをサキが呼び止める。
「頑張ってね」
 サキはわたしの父が何の仕事をしているのか知らない。その手伝いをしているわたしがどんなことをしているのかも……。
「うん、ありがと」
 そう言って、わたしは笑顔を見せた。

 家に帰ると父がすでにスーツに着替えていた。愛用のアタッシュケースを手に玄関で出迎えられた。
「遅いぞアスカ」
 父は四十を過ぎたばかりで、背の高いがっしりした体格をしている。いつもは無精髭の生えた顔も、今日ばかりは綺麗に剃ってあった。父の目は切れ長で、わたしはよく似ていると言われる。
 わたしは、ずっと父と二人だけの生活をしている。母は物心ついたときからもういなかった。家には母の写真一つなかったが、たぶん離婚したのだと思う。父の仕事を考えれば、それも当然のことかもしれない。祖父母も父が若いときに他界していたから、わたしにとって父だけが唯一の家族だった。
「早く着替えてこい。すぐに出かけるぞ」
 はあい、とわたしは答えて自分の部屋がある二階へと階段を上った。
 自室でセーラー服から、スーツ姿に着替える。これを着るのは、中学の時からだからもう何十回目になるだろう。わたしが父の仕事を手伝うようになった時に、父がこのスーツを買ってくれた。大きくなってきつくなったらまた買ってやると父は言っていたが、結局、中学の頃からほとんど背は変わらなくて、ずっとこのスーツを着ている。
 押入れの中からボストンバッグを出して、わたしは父の待つ玄関に戻った。
「よし行くか」
 父の顔が少し引き締められる。家にいるときはいつもおどけている父だけれど、今日だけは仕事の顔になる。わたしはそんな父の顔が嫌いじゃない。
 車庫にある中古のセダンにわたしと父は乗り込んだ。もちろん父が運転席だ。わたしはまだ十七だから免許は持っていないけれど、十八の誕生日が来たらすぐに免許を取りたいと思ってる。サキを連れて、旅行とか行ければ最高だ。でも、この車じゃサキは喜ばないかもしれないな、とそんなことを思った。
 車は高速に乗って隣の県まで走った。途中、日が暮れ始めて、空がゆっくりと茜色に変わるのを眺めた。わたしたちの住む日ノ出町は都会と田舎の間のようなありふれた町だけれど、この辺りに建っているのはほとんどが高層ビルで、通りを歩いているのは帰宅途中のサラリーマンばかりだ。
「着いたぞ」
 父がそう告げる前に、わたしは車が目的地へ到着したことに気付いていた。中心街から少し外れた歓楽街にある高層ビル。周囲は雑居ビルが連なっているけれど、その中に一際目立って大きなビルがあった。正面扉の脇に『蒼人会』という看板が出ている。外壁はガラス張りになっていて、夕日を照り返して真っ赤に染まっていた。
 ビルの前に大勢の人が待っていた。誰もが黒いスーツ姿で、わたしが顔を見たことのある人も何人かいた。父がビルの前に車を止めると、がっしりとした巨体の大男がわたしたちの車へとやってくる。わたしは助手席の窓を開けた。
「お待ちしてました」
 その人はわたしが父と一緒にここへ通い始めた時から、ずっとわたしたちを出迎えてきた人だった。
「合田さん、久し振り」
 わたしが笑顔で挨拶すると、合田さんもほんのわずかながら微笑んでくれた。
 合田さんは父と同い年ぐらいだろう。いかにもソレという外見だけど、笑うと目が小さくなって可愛い顔になる。
 わたしと父は車を降りた。父が車のキーを合田さんに渡すと、合田さんは近くにいた若い男の一人にそのキーを渡した。その人が近くの駐車場へと車を動かしてくれるのだろう。
「こちらへ」
 合田さんは礼儀正しい人だ。もう何度も来ているというのに、自分が前に立って案内してくれる。
 わたしたちはビルの中に入った。後ろを若い男が数人付いてくる。でも決して近づくことはなく、ある程度距離を置いて。彼らがわたしたちを見る目には少し恐れるような色が混じっていた。
 エレベータの中に入る。入ったのはわたしと父と合田さんだけだ。エレベータの扉が閉まりきるまで、若い男たちは扉の前で頭を下げ続けていた。
「今日の『食材』は?」
 扉が閉まってすぐ、父が合田さんに尋ねた。
「イキのいいのが入ってます。ヘタを打ったうちの若いモンですが……」
 合田さんの顔が曇った。
「あいつは俺が目をかけていたんでこうなったのが残念です……いえ、そんなこと浦木さんに言ったって仕方がありませんね。あいつのこと、よろしくお願いします」
 合田さんが父に頭を下げた。この人が頭を下げるところなんてめったに見ることができないだろう。合田さんは蒼人会の若頭で、大勢の部下がいるのだから。
「わかった。悔いが残らないよう『料理』させてもらうよ」
 父の顔はもう完全に料理人の顔に変わっていた。ありがとうございます、と合田さんが言う。わたしはこういう場面を目にするとき、いつも自分がこんな場所にいていいのだろうかと感じてしまう。父の仕事を手伝うことが、それほどの権利をわたしに与えてくれるのだろうか、と。
 エレベータが目的の階に到着した。二十四階。この階に父の仕事場が用意されている。わたしたちがエレベータを出ると、通路には誰もいなかった。でもこれはいつものことだ。父が仕事をする今日だけは、他の誰もこの階に入れないようになっているのだから。
 合田さんに連れられて、わたしたちは部屋の一つに入った。真っ暗な部屋だけれど、もう何度も来ているので部屋の様子は手に取るようにわかっている。ここは本来なら会議室に使うような広い部屋だ。いつも床に大きなビニールシートが敷かれていて、その中心に椅子が一つ置かれている。
 合田さんがパチリと扉の脇にあるスイッチを押した。天井の蛍光灯が室内の闇を取り払う。
 中央の椅子の上に、男が座っていた。
「……アニキ」
 男は合田さんの顔を見るなりそう口にした。合田さんは先ほどとは打って変わって厳しい顔をしている。
「この人が浦木さんだ。お前も聞いたことがあるだろう。今日の会食の料理人だ」
 父が男に向かって小さく頭を下げた。わたしもそれに倣う。
 男の顔は蒼白になっていた。二十代の後半ぐらいだろうか。短髪のスポーツマンタイプ。今風の整った顔立ちで女性に好かれそうな感じだ。わたしは好みじゃないけれど。
 男の両手足は椅子に固定されるように縛られていた。あれでは、どんな人も暴れることはできないだろう。これから訪れる自分の運命をすでに受け入れているのか、男がそれ以上自分から口を開くことはなかった。
「合田さん、ここからは料理人の仕事ですから」
 父が言う。合田さんに部屋を出て行くよう促しているのだ。
「……今回だけはお願いできませんか」
 合田さんが父を真っ直ぐに見据えてそう懇願した。自分の部下だった男の最期を見届けたいのだろう。
「……ふう。仕方がありませんね。ただし、今回だけですよ」
 父は普段なら絶対に許可なんてしない。それがたとえ蒼人会の会長であっても。合田さんとは長い付き合いだからこそ、それをよくわかっているはずだ。
「すみません。恩に着ます」
 合田さんが深く頭を下げた。
 仕事に入ってから、この部屋に他人がいるなんて初めてのことだ。父の仕事を信頼しているからこそ、これまで誰も入れなかったのだから。
 父は男に向き直った。
「目隠しはいるかい?」
 父が淡々とした口調で男に尋ねる。
「……はい」
 答える男の声は震えていた。
 父は床にアタッシュケースを置くと、中から布切れを取り出した。椅子の背後に回り、布で男に目隠しをする。
「何か言い残すことは?」
 男は、何も答えなかった。いつの間にか、父の手に柳葉包丁が握られていた。父は包丁を男の首元に当てる。喉仏の下あたり。それでも、男にその瞬間を悟られないよう一ミリほどの隙間は残している。
 父が包丁を引いた。何の躊躇いも、迷いもなかった。男の首筋が鋭く切り開かれる。次の瞬間、勢いよく血が噴き出した。ビニールシートが真っ赤に染まっていく。「ごふっ……ぶほ……!」男の首筋が仰け反り、逆流した血液が口から溢れる。椅子に縛り付けられたまま体を悶えさせる。死の直前、合田さんが男から顔を背けるのが視界の片隅に見えた。蒼人会の若頭ですら直視できないほどの凄惨な光景、なのだろうか。
 わたしは、何も感じなかったけれど……。

 父は人肉料理人だ。
 昔から、それこそ江戸時代と言えるぐらいの昔から代々続いている仕事らしい。捕虜や罪人を料理することで、兵の士気を高めたり、滋養を得ることができるそうだ。
 今はそうした依頼はほとんどなくなったけれど、いわゆる裏社会ではまだ需要があって、父もそうした仕事を細々と続けている。月に一度開かれる蒼人会の定例会が今の主な仕事だ。
 わたしが子どもの頃から、父はそんな仕事をずっと続けていたから、父の仕事に対する嫌悪感めいたものは何もない。むしろ子どもの頃は、父の仕事は社会に当然のものとして存在する職業で、人が同じ人の肉を食べることは当たり前に行われているものだとばかり思っていた。
 家の食卓に人肉料理が出ることはなかったけれど、父の作る料理は生きたままの鳥や豚から料理するのがほとんどだった。たまに大きな牛をトラックで運び込むこともあった。きっと腕を錆びつかせないためにそうしていたのだろう。解体作業まで一人でやる父のことをわたしは凄いと思っていたし、実際に尊敬している。
 でもわたしが小学生になった頃、そうした自分の価値観が普通の人とずれていることに気付いた。
 誰も家で魚以外の生きた食材を料理することはなかったし、人肉の話題なんて一度も出たことがなかった。わたしが友達に、鳥を絞めるお父さんの真似をすると気味悪がられた。それからは自分の家のことを口にすることはなくなった。
 中学になると、父はわたしを仕事に助手として連れて行ってくれるようになった。わたしもそれまでに生きた動物を捌くことは何度もやっていたし、父が自分を助手として認めてくれたことが素直に嬉しかった。
 でも、初めて人が目の前で死ぬところをみた時は、さすがに足が竦んだ。それも、父が人を殺したのだから。人が死ぬというのは、動物のものとはまるで違っていた。でも毎月のように見ていると、さすがに慣れてしまった。いや、ちょっと違うかもしれない。慣れたのではなく、理解したのだと思う。本当は父が手を下す必要なんてないのだから。蒼人会の人が、誰か他の人にやらせればいいだけのことだ。
 父が自分で食材を殺すのは、料理人としてそうする必要があるからだ。命を大切にできない人が、美味しいものを作れるはずがない。それがわたしにもわかるようになった。牛や豚、そして人間を含めたすべての生き物には命があって、その命を犠牲にして人は生きているのだから。
 生き物へと感謝するために、父は人を、食材を殺しているのだ。

 父の仕事はまず血抜きから始まる。失血死した男をさらに逆さにして天井に吊るす。すると出尽くしたと思えた血がさらにドバドバ出てくるから不思議だ。床に置いたバケツが一杯になり、首の傷口から血が抜けきるのを待つ。その間にわたしは別室にあるキッチンで前菜の準備をするのが常だった。肉料理ばかりだとさすがに胃に重すぎるからだ。
 スーツを脱いで調理服に着替える。肉屋で着ているようなゴム製の前掛け、手袋、長靴を着けて、前菜の用意をする。
「始めるぞ」
 三十分ほどして父がキッチンに入ってくる。その頃にはわたしも前菜の支度を終えていた。
 父がストレッチャーで運び込んだ男の死体を中央にある調理テーブルの上に載せる。
 そこでまたわたしの仕事だ。男の服を脱がして全裸にし、男の真っ赤に染まった全身を水道のホースで洗い流す。その間に父はスーツから、わたしと同じ調理服に着替えていた。
 父がアタッシュケースの中から電動ノコギリを取り出した。スイッチを入れる。ウイイイイインという甲高い音とともに刃が高速回転する。男の胸の中心から下に向けてゆっくりと刃を入れる。すると肉に挟まれた刃がブブブブブブッというくぐもった音に変わる。胸骨を切り開き、横隔膜まで切断する。ヘソの下まで刃が過ぎたところでノコギリを抜く。血抜きしたため、あまり血は出ていない。
 父が切断面に指を突っ込んで、胸郭を押し開いた。内臓が姿を見せる。わたしは内臓を傷つけないよう手で一つ一つ掴み出した。内臓を水洗いし、塩漬けにする。
 基本的に父が解体作業で、わたしが細かい雑用を担当する。父が頭蓋骨を切り開いたら、わたしがスプーンで脳を掻き出し、父が骨までバラしたら、わたしはその骨からダシを取る。
 作業は一時間以上に及んで、わたしがクタクタになってきた頃、ようやく下ごしらえが終わった。あとは父の腕の見せ所だ。今回の食材は成人男性のため、使える部分は主に脇腹や腿といった柔らかい肉だけだ。
 切り取られた肉を見ていると、とても人間の体の一部だったようには見えない。スーパーでパック詰めにして売られていたとしても、誰も人肉だとは気付かないだろう。
 父の手で料理が作られていく。ここからはもはや完全に料理人の領域で、わたしに出る幕はない。家では父と一緒に料理をすることもあって、父はわたしに料理を教えてくれるけれど、わたしはまだまだ父の腕には遠く及ばない。あくまでわたしは父の手伝いという立場で、実際に料理をするのは父だけだ。
 父の包丁は淀みなく、まるで初めからそう切ることが決まっているかのように動く。その手際はもう人の領域を超えているといっても過言ではない。いつかわたしも、あんな風に包丁を扱える日が来るのだろうか。

 部屋には二十人ほどの人がいた。和室に置かれた巨大なテーブル。その脇に整然と座っているのは、蒼人会の幹部たちだ。
 わたしと父は部屋の隅に座布団を敷いて、ずっと正座し続けていた。すでに料理は部屋に運び込まれ、テーブルの上に並べられている。彼らがそれを食べ終わるまでの間、わたしたちはこの場所でじっと不動の姿勢で待たなければならないのだ。
 上座の席にでっぷりと太った和服の男がいる。半分禿げあがった額に脂汗が光り、鋭い眼光が会食の席につく幹部たちを睥睨している。彼が、蒼人会の会長である梧桐龍之介だった。
 蒼人会は多くの傘下を持っていて、今日はその組長たちが月に一度、会食のために集まる日だ。この定例会は蒼人会が発足した当時から行われていて、組織の結束を強めるのが目的だと聞いている。傘下の人たちからすれば会長のご機嫌取りをしなければならないため、あまり嬉しい日ではないのだろう。その証拠に、誰もが緊張に体を強張らせていた。
「それでは、そろそろ始めさせてもらいます」
 会長の隣の席にいる合田さんが立ち上がって、乾杯の音頭を取った。
「蒼人会のますますの繁栄を願って――」
 乾杯の声が唱和した。組員たちが一杯目のグラスを一気に呷り、すぐにジョッキを空にする。会長へのアピールだ。精力的な行動を取ることで覚えを良くしてもらおうとしているのだろう。しかし、全員がそうして気を回すため、むしろ一気に飲み干すのが当たり前になってしまっている。
 ようやく彼らが食事に手を付けはじめた。わたしは少し緊張した。しかし、聞こえてきたのは賞賛の言葉だった。
「美味い」
「さすがは浦木だ」
 そう言って、組長の一人が父を見る。父は小さく会釈してそれに応えた。
 父の顔には何の感情も、誇らしさすら浮かんでいない。それは仕事に全力を尽くしたプロの顔で、たとえどんな評価であろうと受け入れる心構えができているといった様子だった。
 しかし、これまで父の料理が不評だったことはない。それも当然のことだと、わたしは思っている。
 一度だけ、わたしは父の料理を食べたことがある。それは、初めてこのビルに入った中学生のときのことだ。その時のわたしは手伝いではなく、父の仕事を見ているだけだった。そして会食が終わったあと、父とともに会長の部屋へ挨拶に行った。
 その時の会長は、普段、会食の席で見せる厳つい表情ではなく、まるで孫を見ているような優しい顔をしていた。わたしは緊張でほとんど何も話せなかった。でも、会長は楽しそうだった。
「お父さんの料理を食べたことはあるかね?」
 ないです、とわたしは答えた。すると会長は、会食で出した料理の残りを持ってくるように部下に命じ、すぐにわたしの前に料理が運び込まれた。
「さあ、食べてみなさい」
 会長は心底、嬉しそうにそう言った。もちろん、わたしには抵抗感があった。父が作ったとはいえ、それはもとは人肉なのだ。牛や豚を食べるのと、人の肉を食べるのとはわけが違う。しかし、断るわけにもいかなかった。
 わたしはおずおずと料理に手を伸ばした。肉を一切れ、口の中に入れる。その瞬間、舌が溶けた。
 牛や豚とは比べ物にならないぐらい美味しかったのだ。人の肉が、これほど美味しいなんて、想像もしていなかった。
「美味いだろう?」
 会長の問いにわたしは、頷くことしかできなかった。
 うんうん、と会長が首肯する。
「しかしね。人肉料理が美味しいわけではないんだ。牛や豚は生まれた時から食べるために育てられているんだからね。しかし、なぜ人肉料理がこれほど美味しいかというと、それは君のお父さんの料理人としての腕があってこそのものだ。人肉料理人は決して卑しい仕事でも、汚い仕事ではない。そのことはわかっておきなさい」
 そう言って笑顔を見せる会長の姿は、今この席にいる会長とはまるで別人のようだった。会長は、蒼人会の人に決して汚い仕事に手を染めさせるようなことはしないと以前、合田さんから聞いたことがある。麻薬などの違法取引は決して行わない。それはつまり、会長が人肉料理人を下賤な職業と見做していない証でもあるのだろう。崇高な職人技であると認めてくれているからこそ、きっと父もこの仕事を続けているのだと思う。

     二

 会食の翌日、わたしはいつものように目覚まし時計の音で目を覚ました。父はいつもわたしより早く起きている。会食の日以外は専業主夫となって家事の一切をやってくれているからだ。母がいないわたしの家では、それが当たり前になっている。
 父の作ってくれた朝食を食べる。もちろんごく普通の朝食だ。トーストとサラダにコーヒー。寝ぐせでぼさぼさの頭をした父と向かい合って食卓に座る。父が新聞を読みながら、昨日はこんな事件があったとか、今夜はこのテレビを見ようなんて言ってくる。
 こうして見る父は、どの家庭にもいるごく当たり前の父親にしか見えない。もちろん専業主夫の父がいる家は少ないだろうけど、特に生活に不安がないのならそれでも構わない。わたしにとって父は父親でもあり、母親でもあるのだから。
 若い頃、父は海外に留学して世界中の料理を学んだことがあるらしい。それもすべて祖父から人肉料理人の仕事を引き継ぐためだったそうだけれど。そういえば、祖父母がどうして早く亡くなってしまったのか、その理由をわたしは知らない。こんな仕事をしているからしょうがないよな、なんて父が笑いながら話してくれただけだ。
 朝食を食べ終わると、「いってきまーす」と父に告げて、わたしは家を出る。学校についたらサキに「おはよっ」と挨拶して、「昨日のテレビ見た?」とかそんな話をする。チャイムが鳴ったら席に着いて、退屈な授業を受ける。たまに居眠りをしているところを見つかって、「すいません」と舌を出す。クラスメイトの笑い声。昼休みになって、サキと一緒に購買のパンを食べた。他愛のない話題で盛り上がる。
 こうしていると、自分が月に一度、人間の解体に立ち会っているなんて誰も思わないだろう。目の前で人が死ぬのを見て、その死体がバラバラになるところを平然と眺めているなんて、誰も考えすらしないだろう。
 わたしはごく普通の女子高生で、そんな裏社会のドロドロした部分とは何の関わりもない、そう装っておかなければならない。もしそんな裏の部分をサキが知れば、きっと彼女はわたしを恐れるだろう。二度と友達として、わたしのことを見てはくれないだろう。
 だからサキには話せない。絶対に。
 わたしにはサキの他に友達はいない。一人でいるのが好きなほうだから、交友関係を広げようという気にもならなかったし、これまで男の子と付き合ったこともない。でも本当は、自分から関わりを避けてきたのだと思う。嫌われるのが、怖くて。
 五限目はホームルームだった。
「それじゃあ進路調査書を配るぞー。一週間後に回収するから、その日までに第一志望から第三志望まで記入しておくように」
 担任の羽柴先生がそう言い終えると、教室の中がざわめいた。わたしたちはもう高校三年生で、そろそろ進路を決めなければならないのだ。そのうちこの日が来ることは知っていたけれど、わたしはまだ先のことだと思っていた。きっとクラスメイトのほとんどがそうだ。
「アスカは大学に行くんだよね?」
 帰宅途中、サキがわたしに聞いてきた。わたしたちは家の方向が途中まで同じなのでいつも一緒に帰っている。
「うーん。どうだろ」
「何かなりたいものがあるの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 進路と言われてもどこかピンとこなかった。自分が大学生になっている姿を想像することができない。かといって、父の仕事をこのままずっと手伝っていくつもりというわけでもない。自分が高校を卒業したあと、どの道を行けばいいのか、霧に包まれて見えないような感じだった。
「サキは……大学に行くよね?」
 これ以上、自分のことを聞かれるのがイヤで、わたしはサキに訊き返した。
「うん。そのつもり」
 サキは笑顔でそう言った。まるで将来に何の不安もないというような表情だった。
 サキの父はそれなりに大きな会社の経営者で、箱入りで育ってきたサキが大学に行くのは当然のことだ。わたしから見ても、サキの将来は容易に想像がついた。大学に行って、卒業したらOLになって、しばらく働いたあと結婚する。優しい夫と子どもに恵まれて幸せに暮らすのだ。それを平凡でつまらない人生だと言う人もいるだろう。しかし、それがごく一般的な幸せというものだとわたしは思う。
 サキと別れて、わたしは家に帰った。わたしが帰ってきたことに気付いて、父が「おかえりー」と玄関までやってくる。父の手には大振りの中華包丁が握られていて、キッチンから夕食の匂いが漂ってくる。今日は何を作ったんだろう。
 部屋で着替えてからリビングに行くと、父がテーブルに食事を並べているところだった。一日三十品目食べなければならない、という口癖の父が作る夕食は、相変わらずそこいらの料理人では太刀打ちできないほどのバラエティに富んでいた。
 ホイコーロー、チンジャオロース、チリソース、角煮、酢豚。他にも大豆を使った惣菜や、卵スープなんかも並べられる。もちろん主役は豚料理で、家のキッチンには豚一頭が入れるぐらい大きな冷蔵庫が置いてある。実際に入っていることもあるけれど。
 父と二人きりの夕食が始まって、今日の学校での出来事や、父が昼間テレビから得た情報なんかを交換し合った。わたしは学校で進路調査書を貰ったことを父に話そうか悩んだけれど、結局言わないことにした。
 父がわたしに人肉料理人の仕事を継いでほしいと思っていることを知っていたからだ。一度もはっきりと言われたことはないけれど、そうでなければ父はわたしを手伝いに連れて行ったりはしないはずだ。
 今、父に相談して、家業を継いでほしいと言われるのもイヤだったし、進学したいと言って父を困らせるのもイヤだった。それに自分が本当に大学に進学したいのかもわからない。
 ちゃんと考えてから父に話そうと、わたしは思った。

     三

 五月の会食会。
 和室のいつもの席に座って、わたしと父は蒼人会の人たちの食事が終わるのをじっと待っている。
 わたしは憂鬱な気分だった。
 今日は父の手伝いにも身が入らなくて、失敗ばかりした。食材を洗い残してしまったり、せっかく煮込んだスープを零してしまったのだ。手伝いを始めたばかりの頃は失敗をして何度も怒られたけれど、最近はもう怒られることはほとんどなかったから、油断していたのかもしれない。
 でも父はそんなわたしを怒ったりはしなかった。父の甲斐あって料理は完成したけれど、わたしは自分が役に立たない存在だと思い知らされた気がして心が沈んでいた。
 目を伏せて畳の目をじっと見つめる。箸が食器に当たる音。ビールが注がれる音。楽しげな会話。この場にどうして自分がいるのか不思議に思えた。父は、わたしが手伝わなくても一人でやっていけるはずなのに、どうしてわたしを連れてくるのだろう。やっぱりわたしに家業を継がせたいのだろうか。
 あれから、わたしは進路調査書を羽柴先生に提出した。進路希望には第三希望まで、適当な大学名を書いた。今のわたしの成績で考えると、妥当と言っていい大学ばかりだ。受け取った羽柴先生は調査書に軽く目を通したあと、「そうか」と言って何の問題もなく受け取った。
 でも、これでいいのだろうか。わたしは大学に行って、やりたいことがあるわけでもない。わたしの進路について父にもまだ相談していない。かといって、サキに相談しようにも家業について彼女には話せない。自分一人で決めるしかないのが、こんなにも重荷になるとは思わなかった。
 これまでわたしは自分が強い人間だと思っていた。人が目の前で殺されるのを何度も見てきたし、大抵の事には動じない人間だと思っていた。それなのに、自分の進路ということだけで、こんなに悩まなければならないなんて……。  
「おい」
 突然上がった声に考えに耽っていたわたしは意識を現実へと戻された。顔を上げると、みんなが合田さんに注目しているのが見えた。
「そこのあんた、ちっとも食ってねえじゃねえか」
 合田さんが恫喝した相手は、わたしの見たことのない顔だった。きっと今日、初めてこの会食に呼ばれたのだろう。まだ二十歳を過ぎたばかりの若い男だ。とはいえこの会食に呼ばれるぐらいだから、それなりの立場にはいるのかもしれない。
「…………」
 男は先ほどのわたしのように、正座したまま目を伏せている。膝の上に置かれた手が拳を握り締め激しく震えだしていた。
「おい隆文」
 隣にいた中年男が、若い男に声を掛ける。よく見ると二人は顔がよく似ていた。親子なのだろうか。
「食べるんだ。せっかく用意してくださったんだぞ」
 中年男の額には汗の玉が浮かんでいる。だが、その言葉が聞こえていないかのように、隆文と呼ばれた男は何の反応も示さなかった。
 合田さんは立ち上がると、隆文たちのいる席まで歩いた。
「鳥谷さん」
 それが中年男の名前なのだろう。鳥谷の肩に、合田さんが手を置いた。
「アンタんところの跡目は、うちの出した料理が食えねえってことですかい?」
 合田さんの手に力が入るのが見えた。鳥谷の顔が苦痛に歪む。
「た、隆文っ! 早く食べなさい!」
 隆文は合田さんに目を向けた。隆文の顔が青ざめる。箸を掴み、料理に手を伸ばすと肉を一切れ摘まみ上げた。
「……これ、人肉なんだろ」
 そう言って、隆文が声を震わせる。
「だから、何だ」
 合田さんの目は切れそうなほどに鋭かった。どんな言葉も反論もその視線の前では意味を為さない。たとえ誰であろうと取れる手はたった一つ、服従だけだ。
 だが隆文はその選択を捨てた。
「俺……こんなもの、食えねえよ!」
 そう言って箸を放り投げたのだ。鳥谷の顔が絶望の色に染まる。
「……いい度胸だ」
 合田さんが静かに告げる。その静けさが、周囲から音を奪い去った。黙って面白そうに成り行きを眺める幹部たち。でもそのいくらかは青ざめた顔をしていたけれど。
 合田さんが鳥谷の肩から手を離した。
「鳥谷さん。あんたわかってるだろうな」
「はい……」
 蚊の鳴くような声で鳥谷が頷く。
「詰めろ」
 それまで黙っていた会長が隆文を指し、そう判決を下した。
「いっ、イヤだ」
 隆文が逃げようとして立ち上がる。しかしその背を合田さんが蹴り飛ばした。隆文がテーブルに突っ伏す。人肉料理の載った食器がぶちまけられた。
「鳥谷ィ! てめえ跡目にどんな教育をしてやがる! 詫び入れるときぐらいシャンとせんかあ!」
 会長の怒声が飛ぶ。
 鳥谷は畳に額を擦りつけて土下座すると、「申し訳ありません!」と何度も何度も謝罪の言葉を口にした。
「どうかっ……どうか倅を許してやってくださいっ」
 この期に及んでも、鳥谷は息子の身を案じていた。
「やめてくれよ親父ッ!」
 起き上った隆文が父親の背に縋りつく。
「バカヤロウ!」
 鳥谷は息子を殴り飛ばした。隆文が背から畳に倒れ込む。だがすぐに肘をついて顔を上げた。父親を睨みつける。
「……俺は親父の跡なんか継ぎたくないってのに。どうしてこんなとこに連れてきたんだよう」
 隆文は目に涙を浮かべて泣き言を漏らした。
「おい、ポン刀持ってこい!」
 近くに控えていた若い衆に合田さんが命令する。
 それからは、酷い有様だった。
 幾人もの男たちに取り押さえられた隆文は子どものように泣きながら小便を漏らした。会長はその様子を無言で眺めている。視線は隆文を見ているものの、そこには何の感情も浮かんでおらず、道端に落ちている石ころを眺めているような渇いた眼をしていた。
 隆文は無理やり正座させられ、左腕をまっすぐ水平に伸ばさせられた。わたしはこれから何が起こるのかを知っていた。前に一度、見たことがあるのだ。蒼人会はそこいらの暴力団ような生易しい集団ではない。鉄の掟が支配する軍隊以上の組織なのだ。
 床に日本刀が突き立てられる。柄を手にしているのは、父親である鳥谷だった。会長の怒りを抑えるには他に方法がない。そう覚悟を決めたのだろう。父親の手で、息子の腕を落とすしか。
 そう。これから落とされるのは指ではない。
 腕だ。
 小指程度なら義肢で誤魔化すこともできるけれど、腕となるとそうはいかない。
だが、高い代償があるからこそ、誰もが掟を遵守し、それが徹底した規律を生み出しているのだ。
 鳥谷は目に涙を浮かべていた。「バカヤロウ……バカヤロウ……」と小さく何度も呟いている。彼自身、蒼人会の幹部として、幾多の修羅場を潜り抜けてきたはずだ。かといって息子の腕を落とすことは、これまでのどんな経験よりも躊躇いがあるらしい。
 その光景を見ながら、わたしはどうしてこうなってしまったのだろう、と考えていた。鳥谷氏の息子がこの場に来たのは、父親の跡目を継がせるためだということはわかる。でも、息子は父親の跡は継ぎたかったわけじゃない。無理やり連れて来られて人肉を食べさせられるなんて、普通の人ならなんて酷いことをするんだと思うだろう。なら、息子は父親について来なければよかったのか。そうすることで父親の立場が悪くなるのがわかっていてなお、ついて来ないほうがよかったのだろうか。わたしにはわからなかった。
「アスカ。よく見ておけ」
 父がわたしに言う。
「これが、私たちの住む世界だ」
 父の住む世界。わたしはもうここから抜け出せないのかもしれない。一度、関わってしまったからには。
 鳥谷が日本刀を持ち上げた。真っ直ぐ天井に向けて慟哭を放ちながら。「あああああああああ」振り下ろす。一気に。それが父親としての優しさだったのかもしれない。次の瞬間、息子の腕は胴体から離れていた。ゴトリと床に腕が転がった。傷口から激しく血飛沫が舞い、畳を鮮血が紅く染める。鳥谷は声をもう上げていない。
 束の間、奇妙な静寂が訪れる。だがそれもほんの、一瞬だった。
「ウギャアアアアアアア」
 人のものとは思えないような声が隆文の口から迸る。苦痛をほとんど与えて食材の命を奪う父の技とは違い、これはただ苦痛と恐怖を与えるための粛清であり、放たれるのは怨嗟と絶望の叫びだった。
 でも、それを聞いてなお、動じていない自分がいるのにわたしは気付いていた。 

「会長。どうしますか」
 尋ねたのは若頭の合田さんだった。先ほどまでの怒気はどこへやら、いつもの落ち着いた口調に戻っている。
「そうだな……」
 会長は普段と何も変わらず、落ち着いた様子だった。こんなことは、会長にとってただの余興に過ぎない。
「わざわざ、浦木の手を煩わせることもあるまい」
 意外だった。わたしはてっきり父が呼ばれるものと思っていたのだ。
「そんな生っちろい腕、喰う気にもならん。元の場所に戻してやれ」
「わかりました」
 合田さんはただ頷いた。それだけで何をすればいいのか理解しているのだろう。
 会長の前から退き、合田さんは再び隆文の前に立った。彼は床に力なくうつ伏せたまま、半ば白眼を剥いていた。腕にはすでにタオルがきつく巻かれ止血されている。だが激しい痛みと出血と腕を失ったショックから、床に落ちた自身の腕を他人のものであるかのように呆けた様子で見つめ続けている。
「おい」
 合田さんの声に、隆文の視線がそちらへ向いた。
「食事の時間だ」
 その言葉が何を意味するのか、そのときの隆文にはわからなかっただろう。相変わらず虚ろな視線を向けただけだった。
 控えていた男たちが進み出る。一人が隆文の白い腕を拾い上げた。そして別の男が懐からドスを取り出し、腕の肉を削ぎ落とした。
「うーあー」
 隆文がそれを見て、声を出す。まるで幼児のように力のない声だった。口元からは涎を零している。すでに精神が壊れてしまったのかもしれない。
 だが自分の肉が口元に当てがわれると突然正気に戻ったように喚き散らした。
「やめろおひやだあうもごごご」
 それでも無理やり肉が口に押し込められた。隆文の顔は涙と鼻水が垂れ流しでもう完全に白目を剥いている。肉を口に詰め過ぎて息ができないのかもしれない。
 近くに鳥谷も立っていたが、彼はじっと突っ立ったまま、床に目を伏せ肩を震わせていた。もはや息子を助ける気もないらしい。長くこの世界に身を置く彼のことだから、逆らうことが死に繋がることは何より理解しているはずだ。こうして災禍が去るまでじっと耐えるしかないことを。
 それから十分ほどが過ぎただろうか。気付くともう隆文は気を失っていた。自分自身の腕は手首だけ肉が残っているような状態で、隆文の痩せっぽちだった腹は自身の肉で大きく膨らんでいる。
「鳥谷」
 会長が呼んだ。
 すぐに鳥谷が動き、会長の前に馳せ参じる。だがその足取りはどう見てもまともとは言えず、顔は一気に十も歳を取ったように見えた。
「今日はこれで手打ちにしてやる。だが、あいつはもう二度とここへ連れてくるな。と言っても、もう外に出れるとは思えんがな」
 そう言って、会長は大声で笑い出した。
 鳥谷が無言のまま頷く。
 まるで、死んだ食材のような目をしていた。

     四

 その日は朝から雨が降っていた。梅雨が近いせいかもしれない。わたしは日曜だというのにいつものクセで早くに目を覚ましてしまい、毎日が日曜日の父と一緒に朝食を食べた。
 父は年に似合わず可愛い柄のパジャマを着ている。仕事の日以外はいつも無精髭が生えていて、外にはほとんど出ずに家事をこなしている。わたしにとって父は仕事のときだけ父親で、普段は母親だった。
「今日はどこかに出かけるのか?」
 父がテレビを見ながらわたしに聞いてきた。
 時刻は午前七時過ぎ。テレビでは子どもに人気の特撮テレビ番組がやっていて、変身ヒーローが怪人と闘っている。毎週、父はこの番組を欠かさず見ているらしい。
「昼からサキと買い物に行く」
 わたしが答えると、テレビに夢中の父は「ふうん」とだけ言った。
 朝食を食べ終えて、わたしは自分の部屋で勉強をした。今年はもう受験で、わたしは大学に行くかまだわからなかったけれど、どちらにしても勉強をしておいて損はない。
 昼になると父が料理を作ってくれた。父のさばいた鳥料理で、相変わらずおいしかった。もし初めて父の料理を食べた人がいれば、ほっぺが落ちてしまうかもしれない。
 昼食を食べ終えてわたしは家を出た。父が「気をつけろよ」と言って玄関先で見送ってくれる。お気に入りのストライプ柄の傘を差して、駅まで歩いた。
 電車に乗ると、休日の昼ということもあって、車内は家族連れや若いカップルが多かった。隣の県にある駅で降りる。そこはいつも父と行くあのオフィス街だった。蒼人会のビルはもう少し外れだけれど、今日の目的地はそこじゃない。駅ビルの中に入る。エレベータを飲食フロアのある八階まで上がると、アンクローズという名前の喫茶店に入った。待ち人はまだ来ていないようだった。
 一人、窓際の席に座って、昼の町を見下ろす。雨粒のせいで窓ガラスは引っ掻き傷のようになっている。その窓を通して見える高層ビル群は、ロボットがいくつも立ち並んでいる無機質な情景に見えた。
 コーヒーを飲んでいると、「待たせたね」と声をかけられた。
 わたしはすぐに席から立ち上がった。
「すいませんわざわざ」
 深く頭を下げる。
 目の前に立っているのは巨漢の大男だ。今日は少しカジュアルなスーツを着ていて、サングラスを掛けている。父にはサキと買い物に行くと言ったけれど、本当はわたしが待ち合わせていた相手はサキじゃなかった。
「いえ、そんな……一人で来られたんですか?」
 蒼人会の若頭である合田さんが誰もお供を付けずに来るなんて意外に思えた。
「今は敵対してる組もないからね。それに一人のほうが君も安心して話せるだろう」
 ウェイターが注文を取りに来て、合田さんもコーヒーを頼んだ。
「それで、相談って何だい?」
「はい……」
 前の会食の時、わたしは合田さんに話したいことがあった。でもその時はあまり時間もないし、込み入ったことだから、今日ここで待ち合わせをする約束だけ取り付けていたのだ。
「実は、進路に迷ってるんです。わたしも高校三年生で、そろそろ進路を決めないといけなくて……」
 ウェイターが来て、合田さんの前にコーヒーを置いた。合田さんは猫舌なのか、コーヒーを少し口を付けただけでテーブルに戻した。
「それはつまり、お父さんの仕事を継ぎたくないってことかな?」
「……わからないんです。父の仕事はまともじゃないけれど、立派な仕事だってことはわかります。でも自分が父の跡を継いで仕事をしているところを想像できないんです」
「そうか……」
 合田さんがまたコーヒーをちびりと飲む。
「君は、浦木家が昔なんと呼ばれていたか知っているかい?」
「えっ……?」
 急に話が変わったのでわたしは思わず疑問の声を上げた。
「これはオヤジ……いや、会長から聞いた話なんだが、浦木という苗字は、表向きの名前なんだそうだ。本当は裏に鬼と書いて、『裏鬼』と読むらしい。それはつまり、浦木一族の人間が裏に鬼を秘めているということからきているんだ」
「どういうことですか?」
「この間あった鳥谷の騒動も、その前の部下の料理でも、君は目の前で人が痛い目に合う、殺されるといった場面でも冷静でいられただろう。それこそが浦木家の人間である証明だとわたしは思うんだ。つまり、浦木家の人間は人の死に対する耐性のようなものを持っている」
 突然のことにわたしは驚いていた。でも、よくよく考えてみると思い当たる節はある。でもそれはただ人の死に慣れたというだけで、わたしの生まれから来るものだなんて考えたこともなかった。
 本当に、わたしはそんなものを持っているのだろうか。
「今で言うサイコパス――反社会性人格障害のようなものだろうか。君のお父さんが弟子を取らないのもそのためだ。浦木家の人間以外には、この仕事は務まらない。昔話になるが、君が初めてうちのビルにやって来たとき、お父さんはこう言っていた。『目の前で人が死ぬのを見てアスカが泣いたらもう二度と連れてこない』とね。でも君は泣かなかった。素質があると見込んだんだろうな」
 父がそんなテストしていたなんて知らなかった。もうあの時のことはほとんど覚えていないけれど、たしかにわたしは泣かなかった気がする。あの時泣いていれば、わたしが父の手伝いをすることもなかったのかもしれない。
「どうしたらいいんですか。わたしにはもう普通の生活はできないんですか?」
「わたしは立場上、君にはお父さんの跡を継いで貰いたいと思ってる。でも、最終的には君が決めることだ。普通の生活を送りたいのならそうすればいい」
 そう言うと、合田さんは立ち上がった。テーブルの伝票を掴んでレジへと歩いていく。わたしはただそれを見送った。
 本心を言えば、合田さんに決めてほしかった。父の跡を継ぐことを無理に進めてくるか、跡を継がないように説得してほしかった。でも、合田さんは自分で決めるようにしか言ってくれなかった。
 そのとき、ふとわたしは気付いた。合田さんの残したカップから、ほとんどコーヒーが減っていないことに。もう冷めていたはずなのに。
 合田さんはコーヒーが飲めないのだろう。ただコーヒーを飲むというポーズをするために頼んだだけなのだ。
 なんだかおかしくて、わたしは思わず声を上げて笑った。

     五

 月曜日、わたしはいつものように学校に登校した。進路のことはまだ悩んでいたけれど、なるようになると気持ちを切り替えることに決めた。合田さんが言ったように、わたしや父が特殊な人間だとしてもそんなことは関係ない。わたしはわたしなのだから。
 これまでわたしは、誰かが背を押してくれればいいのにとずっと思っていた。でもそうじゃない。背を押してくれないのではなく、誰も背を押さないでいてくれるのだと考えればいい。
 父は家業を継いでほしいと思っているかもしれない。それでもわたしに直接言ってこないのは、わたしの判断に任せるという父の優しさなのだ。父が、初めてわたしを蒼人会のビルに連れて行ったときと同じように。
 重荷に感じる必要はないんだ。昨日、合田さんと会ったことで、わたしはそう思えるようになっていた。
 教室に入って、いつものように「おはよっ」とサキに挨拶する。でも、返ってきたのは「おはよ……」という元気のない声だった。
「どうしたの? 元気ないじゃん」
 わたしが尋ねると、サキは「そんなことないよ……」と力ない言葉とは裏腹に微笑んだ。
 そのときは、始業の時間が近かったこともあってそれだけの会話で終わってしまった。でも、それからサキは授業中も休み時間もずっと、ため息ばかりついている。こんなことは初めてだった。様子がおかしいのは間違いない。
 サキはクラスで目立つほうじゃないけれど、育ちがいいせいかどこかおっとりしている。わたしとサキが出会ったときからそんなところは変わっていない。
 中学一年のとき、登校途中の通学路で電柱の陰に女の子がじっと蹲っているのを見つけた。そのときはまだサキと話したことがなくて名前も知らなかったけれど、それが同じクラスの女の子だということはわかった。
「どうしたの。気分でも悪いの?」
 わたしが尋ねると、彼女ははっと気付いたように振り返った。
「花を見ていたの」
 彼女の前には小さなタンポポの花が咲いていた。アスファルトの片隅に、ひっそりと黄色い花弁を咲かせていた。電柱の陰になって、普通に通りを歩いていたら見えない位置だった。わたしはこれまでそんなところに花が咲いているなんてまったく知らなかった。
 彼女はまた花を見つめはじめた。
「遅刻するよ」
 わたしはそう声を掛けた。普通に歩けば十分に間に合う時間だけれど、そうのんびりしていられるほどでもない。
「うん」
 返事はあったものの、彼女は動こうとしなかった。
「行かないの?」
「もう少しだけ」
 その花のどこがそんなにいいのだろう、とわたしは思っていた。道端に咲いているどこにでもあるタンポポ。そんなもの珍しくもない。
「花が好きなの?」
「普通、かな……」
 わたしの問いに、彼女は振り返りもせず答えた。彼女を置いて一人だけ登校しようかとわたしは迷ったが、彼女を待つことにした。どうして彼女がそんなにタンポポに関心を寄せているのか不思議だったからだ。わたしも、タンポポをじっと見つめた。見つめれば、その理由がわかるかもしれないと思って。
 遠くから、学校のチャイムが鳴る音がした。もう遅刻だ。そこでようやく彼女が立ち上がった。
「待っててくれてありがとう」
 そう言って、彼女は微笑んだ。人をほっと安心させるような優しい笑みだった。
 わたしたちは一緒に学校へ向かった。特に急ぐわけでもなく、二人並んで歩く。どうせ遅刻なのだから急いだって仕方がなかった。
「どうして花を見ていたの? あの花に何かあるの?」
 わたしは気になっていた疑問を口にした。
「……うーん。うまく言えないんだけど。あの子はあんな場所に咲いちゃったから、きっとこれまで誰にも見てもらえなかったと思うんだ。綺麗に咲いているのに、誰にも見てもらえないなんて悲しいじゃない。だからあの子が咲いている間だけでも、時間のある限り見てあげようと思って」
 そんな考え方をする人間に会ったのは初めてだった。馬鹿だな、と思う反面、自分だけの考え方、世界観を持つ彼女にわたしは惹かれ始めていた。
「あなた名前は?」
 わたしが訊くと、彼女はちょっと驚いたような顔をした。
「サキ……九条サキ」
「わたしは浦木アスカ。お友達になりましょう」
 それからわたしたちは仲良くなった。初めての友達だった。サキは自分のことよりも他人を気遣う性格だから、損な役回りを引き受けることも多い。それでもサキはどんなときも笑顔で、今のように落ち込んでいるところを見たことがない。
 どうしたんだろう。もしかして、恋でもしているのだろうか。
 わたしには恋愛経験はないけれど、女の子は好きな人ができるとため息をつくものだという知識ぐらいはある。奥手なサキは、片思いの相手ができて告白できずにいるのかもしれない。そう思うと、少し心が弾むのを感じた。これが野次馬根性というものだろうか。
「サキ、今日はどうしたの。元気ないじゃない」
 学校からの帰り道、ようやくわたしはサキにそう尋ねた。学校では他の子がいるので、サキも話しにくいだろうと思って我慢していたのだ。
「うん……」
 サキは上の空だった。
「何か悩み事でもあるの」
 さあ言ってみなさい、とわたしは胸を叩いた。
 だがサキの口から出たのは予想もしていない言葉だった。
「あのね……わたし、大学に行けないかもしれないんだ」
「えっ」
 それまでの浮ついた気持ちがいっぺんに弾け飛ぶ。
「どういうこと?」
「わたしのお父さん、知ってるよね?」
 わたしは頷いた。サキの家に遊びに行ったとき、父親には何度か挨拶したことがある。年の割にスマートな体をして、眼鏡を掛けた、いかにもエリートという感じの人だった。
「最近お父さん、夜中になるといつもお酒を飲むようになって……。会社で何かあったのかな、ってお母さんと二人心配してたんだけど……。昨日の夜、お父さんが急に怒り出してお母さんを殴ったの。こんなの初めてでわたし、どうしたらいいかわからなかった……」
 思っていた以上に深刻な悩みだった。わたしは自分の考えの浅さに数分前までの自分を引っ叩きたくなった。
 でも、そんなことはどうでもいい。それよりサキのことだ。
「それで……どうなったの?」 
「お父さんはまたお酒を飲みだして、お母さんは泣いているし、このままじゃいけないと思ったの。だからわたしお父さんに言ったんだ。『どうしてお母さんを殴ったの』って。でもお父さんは答えなくて、代わりに別の事を言ってきた。『もうお前は大学に行けないからそのつもりでいろ』って。……わたし、もう大学に行けないかもしれない」
「そう……」
 サキの目に涙が滲んでいた。こういうときどうすればいいのだろう。大丈夫だよ、お父さんはちょっと気が立っていただけだよ、と言ってしまうのは簡単だ。でも、それでは根本的な解決にならない。
 サキの父親の会社に何かが起こったのは間違いないと思う。サキの父親に直接聞いてみるのがいいだろうけれど、サキが訊いたって答えてくれるとは思えない。かといって、他人の家のことにわたしが口を出すわけにもいかないし……。
 誰かに相談してみよう。そう考えたとき、頭に浮かんだのは合田さんの顔だった。あの人なら顔が広いし、サキの父親の会社を調べることぐらい簡単なはずだ。うん、それがいい。
「あのね、サキ。わたしの知り合いに会社関係に詳しい人がいるんだけど、その人にお父さんの会社のこと調べてもらってもいいかな?」
 サキはキョトンとした顔をした。
「ほんと?」
「うん。たぶん大丈夫だと思う」
 合田さんならまたわたしの相談に乗ってくれるだろう。会食も近いことだし、そのときに話せばいい。
「アスカ、ありがとう」
 わたしが思っていた以上にサキは喜んでくれた。
 少し元気になったサキと、他愛のない話をしながら、いつも彼女と別れる通りまで歩いた。別れ際、サキは少し寂しそうな顔をした。
「頑張ってね」
 わたしはサキを元気付けようと、いつも彼女に言われている言葉を口にする。
 サキが小さく頷いて、またねと手を振った。わたしも手を振り返した。
 一人歩いていくサキの後ろ姿を見ながらわたしは思った。
 サキの父親に何があったのかわからないけれど、なんとか問題を解決してサキを大学に行かせよう。それがきっと彼女にとっての幸せだから。
 そして……わたしもサキと同じ大学に行くんだ。
 そうすればきっとサキは喜んでくれるはずだから――。

     六

 会食の日がやってきた。蒼人会のビルの前にわたしと父の乗った車が着くと、合田さんたちが出迎える。
「お待ちしてました」
 合田さんは仕事の顔でわたしたちに告げる。車を降りて父がキーを近くの若い男に預けると、合田さんの案内でビルに入った。
 まだ合田さんには相談できない。今は仕事前だし、それに前回の失敗がある。合田さんがわたしの相談に乗ってくれるのは、わたしの仕事ぶりへの報酬でもあるのだ。だからこそ、今日は失敗するわけにはいかない。しっかりと仕事を終えてから合田さんに話そうと、わたしは思っていた。
「今日の食材は?」
 エレベータの中で父が合田さんに尋ねた。
「中年の男です。時勢のせいか、近頃はなかなかイキのいいのが手に入らなくて……」
 合田さんが申し訳なさそうに言う。
「まあ、仕方がないな」
 父がため息をついた。前回も食材は中年の男だった。その前は若かったけれど、それは蒼人会の身内から偶然回ってきた食材だ。このところ当局の目が厳しいらしく、蒼人会もあまり目立つ方法で食材を調達できないらしい。
 いつものフロアでエレベータを降りる。食材の用意されている部屋の扉を合田さんが開けてくれた。
「どうぞ」
 ここまで、合田さんは笑み一つ見せない。これから仕事に入る料理人の気を散らさないようにしているのだ。これがいつもの合田さんの顔で、蒼人会の若頭としての顔だった。
 わたしたちは部屋の中に入った。薄暗い部屋。床にはいつものようにビニールシートが敷かれ、中央に椅子が一つぽつんと置かれている。そこに先ほど合田さんの言っていた男が座っているはずだ。
 部屋の明かりが点けられる。
 椅子の上には、誰もいなかった。肘掛けの上にロープだけがだらりと垂れ下がっている。
「おおおおお!」
 突然どこからか叫び声がして、わたしの体は横から来た何かにぶつかった。そのまま倒れそうになったが、誰かに襟元を掴まれて引き戻される。体がくるりと入口に向けられる。父と合田さんの驚いたような顔が目の前にあった。
「テメエッ、何しやがる!」
 合田さんが声を張り上げた。
 首筋に冷たいものが当たる感触。
「いいから道を開けろっ」
 すぐ間近で声がした。
 それでようやくわたしは自分の置かれた状況を理解した。どうやらわたしはこの部屋に囚われていた男に捕まってしまったらしい。首筋に当たっているのは何かの刃物だろう。椅子に縛られていた男はきっとどこかに刃物を隠していて、そのおかげでロープから脱出できたのだ。
 男がわたしの首に突き付けた刃物を軽く押し当てる。かすかな痛みが走った。出血したのかもしれない。父と合田さんの顔が蒼白になる。
「よせっ。わかった道を開ける」
 父が扉の前から離れた。それを受けて合田さんも道を開ける。
「動くなよ。動いたらこの娘の命は保証しない」
 男がわたしの背を押した。わたしはしぶしぶ足を進める。首に押し当てられた刃物はなぜか怖くなかった。自分が死ぬなんてこれまで考えたこともないけれど、他人の死に鈍感なわたしは自分の死にも鈍くなってしまったのだろうか。
「よし、そのままエレベータまで歩くんだ」
 男に言われるままにわたしは歩いた。
 どうしよう。このままこの男に逃げられてしまうと、今夜の料理は出せなくなる。わたしが人質に取られたせいで男を逃がしてしまったとなれば、父の責任が問われるかもしれない。
 父と合田さんは少し距離を置きながら付いてきている。だがそれもエレベータに入ってしまえば、もう追いつくことはできないだろう。このフロアに誰もいないことが、今になって悔やまれる。
 わたしたちが乗ってきたエレベータはまだこの階に止まったままだった。わたしは男とエレベータの中に入った。
「お前たち、携帯を出せ」
 エレベータ前の父と合田さんに向かって男が言う。
 この男は意外に頭がいいのかもしれないとわたしは思った。下の階にいる人たちは、ここで起こったことを知らない。合田さんや父が連絡をできなくなれば、男が逃げることもそう難しくはなくなるだろう。
 父と合田さんがそれぞれ携帯を出した。
「こっちに投げろ。ゆっくりとだ」
 父と合田さんが床を滑らせるように携帯を投げる。しかし、父の投げた携帯だけがエレベータの目前で止まってしまった。
 ちっ、と男が舌打ちする。
「拾え」
 男がわたしに言う。刃物が首から離れて、今度は背中に押し付けられる。首に刃物を当てたままだと拾いにくいからだろう。わたしはチャンスだと思った。
 わたしはゆっくりと背を屈めて携帯電話を拾い上げると、今度はその手を一気に振り上げた。男の顔がある位置目がけて思いっきり。後ろ手に振り上げた携帯電話が固いものにぶつかる感触がした。
「ぐあっ!」
 目に当たったのかもしれない。思ったよりも大きな悲鳴が男の口から上がる。わたしはすぐさまエレベータの外目がけて走り出した。男は痛みで反応が遅れる。父と合田さんが駆けて来るのが見えた。
 すぐに男は合田さんに取り押さえられた。倒れた男に背中から圧し掛かるようにして合田さんは男の腕を捻りあげていた。男の持っていたナイフが床の上に転がった。
 父がわたしの首にできた傷口を見て「大丈夫か?」とわたしに尋ねる。首の傷はほんの少し血が滲んだ程度だった。「うん、大丈夫」とわたしは答えた。それよりもスーツの背中部分がナイフで裂かれてしまい、そのことのほうがショックだった。
「浦木さん」
 合田さんが父を呼ぶ。
「この男、どうしますか。娘さんを危険な目に合わせたんだ。料理の前に、少し痛めつけましょうか?」
 男は観念したかのように項垂れていた。せっかくの脱出のチャンスをこんな小娘に潰されたのだから、きっと悔しさで一杯だろう。でも、それも当然だ。わたしのような関係のない人間にまで刃物を突き付けたのだから。男には少しも同情を感じなかった。食材は食材と割り切っていたのだ。
 でも、そんな気持ちは男が顔を上げた瞬間、どこかに消え去った。
「えっ……?」
 わたしは思わず声を上げた。
「どうした?」
 父がわたしに尋ねる。しかしその声も、今のわたしには届いていなかった。
 どうして。なんで。こんなことって。
 自分の立っている床が、音を立てて崩れていくようだった。
 男の顔をわたしはよく知っていたのだ。
「九条さん……」
 目の前にいるのは間違いなく、サキの父親である九条だった。
「……まさか……アスカちゃん、かい?」
 九条もわたしのことに気付いたらしい。
「こんなところに、どうして……?」
 九条が疑問の声を上げる。顔には困惑の色が浮かんでいた。それもそのはずだ。娘の友達がこんなヤクザの本拠地にいるだなんて思うはずがない。
「アスカの知り合いなのか?」
 父が訊いてくる。わたしは黙って頷いた。
「そうか……」
 父が困った顔になる。
「合田さん。どうしてこの人はここに連れて来られたんですか?」
 わたしはいまだ驚きから冷めないまま尋ねた。
 合田さんが九条を立たせる。九条にもう抵抗する気がないのを見て取ったのだろう。特に乱暴な扱いというわけでもなかった。
「こいつは俺たちの運営する金融会社から金を借りて、そのまま会社をコカしちまったんだ。こいつには何憶という金を投資してたってのによ」
「本当、ですか?」
 わたしの問いに九条は顔を伏せる。だが、その様子から事実であることがわかった。
 自分で納得して借りたお金なら、自業自得と言えないこともない。彼がサキの父親でなければ、わたしはそう思っただろう。でもわたしがここで見て見ぬ振りをすればサキは父親を失うことになる。大学にも行けなくなり、これからサキが得られるはずだった幸せな未来をすべて奪うことになる。
「お父さん……」
 わたしは父に向き直った。
「この人はわたしの友達の父親なの。なんとか助けてあげて。お願い」
 サキのためにも、九条を助けなければならない。サキの泣き顔なんて、見たくなかった。
「それは無理だ」
 合田さんが冷たく告げた。
「こいつを助けることはできない。浦木さんもそれはわかっている。おれたちの世界に情けは禁物だ。一度、情けを掛けちまえば、それからも情に流され続けるからな」
 合田さんの言うことももっともだ。でも、そんなことで割り切れるものじゃない。わたしにとってサキだけが唯一の友達で、彼女を失ってしまうことは世界が半分に欠けてしまうのと同じことだった。
「……わかってる。それでも、わたしは助けたいの。わたしにできることなら何でもする。これから一生、蒼人会の料理人として生きたっていい。だから――お願い」
 しばらく誰も何も言わなかった。
 わたしの言葉が届かなかったわけじゃない。答える言葉を誰も持っていなかったのだ。
「アスカ」
 だが、しばらくして、父がわたしを呼んだ。
「本当に何でもやるか?」
 そう問いかける父の表情は、家で見る日曜料理人のおどけた顔とはまるで違っていた。仕事中以外でこんなに真剣な表情の父を見るのは初めてだ。
「蒼人会の料理人になるということは、たとえどんなに辛いことでもやってのけなければならない。どんなことでもだ。本当にできるか?」
 わたしは迷わなかった。
 はっきりと頷く。
 父が長い息を吐いた。
「わかった。なら今日の料理はお前が一人で作るんだ」

 食器の触れあう音。煙草の煙が充満する和室は笑い声に満ちていた。わたしの作った料理が、いつもと違う空気を作っている様子はない。
 わたしは和室の片隅に座って、この苦行にじっと耐えている。
 見たところ、箸の進みも悪くなかった。客はみんな、美味いと言って食べている。
 それでも、一人だけほとんど箸の進んでいない人物がいた。
 それは蒼人会の会長、梧桐龍之介だった。彼だけが、二口、三口食べただけで箸を止めている。そして、何かを思案しているように、じっとわたしの作った料理を見つめているのだ。
 わたしが料理を作ったことに気付いたのだろうか。胸が不安で強く締め付けられる。わたしが料理したことで、いつもの父の料理よりも味が落ちてしまったのなら、これは完全な失態だ。
 たとえ他の客が気付かなくても、父の先代の頃から食べている会長だけは、味が落ちたことに気付いてしまったのかもしれない。
「浦木はどうした?」
 梧桐会長が隣にいる合田さんに尋ねた。
 合田さんはそれまでただ黙々と箸を進めていた。彼はわたしが作ったということを知っている。それでも、味が落ちたというようなサインは一度も送ってこなかった。
「この部屋にいます」
 合田さんが梧桐会長に答える。
「どういうことだ。あそこにいるのは、浦木の娘だけではないか」
 会長がわたしを見る。わたしは全身を貫くような会長の視線にじっと耐えた。
「お前はワシをからかっとるのか」
 次に会長は合田さんを射抜くような眼で見据えた。梧桐会長から怒りの気配が立ち昇る。それは部屋にいた者全員の箸を止めた。誰もが会長の一挙手一投足を常に気にしている証拠だった。
「からかっているわけでも、冗談でもありません。浦木はこの部屋にいるのです」
 合田さんは梧桐会長の目を見返した。
「おい、浦木の娘。お前の父親はどうした」
 埒があかないと思ったのか、梧桐会長が部屋中に響くような声でわたしに訊いた。
「合田さんのおっしゃった通りです。父は、この場にいます」
 そう告げてわたしは顔を伏せた。会長の視線に耐えられなかったのもあるが、そうしなければ悲しみが胸を突き破って出てくるような気がしたからだ。
「答えになっとらんな」
 梧桐会長は怒りを露わに叫んだ。
「浦木! この料理はどういうことだ! 他の者はごまかせても、ワシの舌はごまかせんぞ!」
 わたしはゴクリと唾を飲み込んだ。
「……その料理は……すべて、わたしが作りました」
 わたしは深く頭を下げた。これから自分のしたことに対する裁決が下されるのだと思った。
「なんだと」
 梧桐会長の驚きの声が耳に響く。わたしが料理を作ったなんて思いも寄らなかったのだろう。まだまだ父の手伝いとしか認識されていなかったのかもしれない。
「……そうか、まあいい。だが味が落ちたことの言い訳にはならんな。この大事な会合の料理を自分ではなく、経験の浅い娘に作らせるとは」
 わたしは顔を上げた。梧桐会長の怒りは収まる気配がなかった。このままでは血が流れることになると誰もがそう思っただろう。
「会長」
 突然、発言したのは合田さんだった。
「恐れながら、わたしには味が落ちたとは思えません。いつもと味が違うのはたしかですが、わたしにはむしろいつもより美味しく思えるのです」
 合田さんが梧桐会長に意見するなんてわたしの知る限り初めてだ。それほど、この料理に思い入れがあったのだろう。
「ワシの舌が間違っているというのか」
 会長が合田さんを睨みつける。
「そうではありません。ただ、これだけは言えます。今回の料理に使われた食材は、これまで我々が食べた中でも最高級の食材です」
 合田さんが臆する様子もなく口にする。
「ほう、それほどまでに言うとはな。一体、どんな人間を食材に使ったのだ」
 その名を、合田さんは静かに告げた。
「浦木です」
 一瞬の間。そしてすぐに室内が中がざわめきだした。
「なんだと……」
 会長が絶句する。
「では……ではあの娘は自分の父親を料理したというのか」
「はい」
 合田さんが会長の問いを肯定した。
 部屋の中にいる全員の視線がわたしに集中した。その視線には驚愕の裡に恐怖も含まれている。やはり浦木の人間は血も涙もないという怖れの視線――。
 でもそうじゃない。決してそんなことはない。わたしが何も感じずに父を料理したと彼らが思っているとしたら、それは大きな間違いだ。

 ――お前が一人で作るんだ。
 父の言った言葉の意味がわからなかった。
「ついてこい」
 父はそう言うと、前に立ち早々と歩きだした。わたしは父のあとについて歩いた。合田さんも九条を連れて追いかけてくる。
 父が向かったのは先ほどまでいた仕事場だった。何を思ったのか、父は中央の椅子に腰かけた。
 合田さんが九条を連れて部屋の中に入ってくる。合田さんは父が中央の椅子に座っていることに驚いた様子だった。
「さあ、やれ」
 父が一言そう告げた。
 誰も動けなかった。
 父が自分を殺せと言っていることはわかっていた。自分が九条の代わりに食材になるつもりなのだ。でも、そんなことできるわけがない。
「どうして……こんなこと」
 わたしは疑問を口にした。
「あの男を助けたいなら、他に方法はない。今から別の食材を調達することはできない。かといって、料理を出さないわけにもいかない。なら、わたしが食材になるしかない」
「そうじゃない! どうしてお父さんが見ず知らずの人のために食材にならないといけないのよ!」
 わたしは叫んだ。いくらわたしが助けたいからといって、父が自分と関係のない人間のために命を投げ出そうとする理由がわからなかった。
「アスカ……これはわたしたち浦木家の宿命なんだ」
「えっ」
 唐突な父の言葉にわたしは困惑を隠せなかった。
「わたしの父親、つまりお前の祖父がどうして死んだのかわかるか?」
 祖父は父が若い頃に亡くなったとしか聞いていない。事故か病気で亡くなったのだろうと、わたしはこれまで深く考えたことはなかった。
「わたしが殺したんだ」
 父は淡々と告げた。
「浦木一族は先代の料理人を殺すことで、次の世代へとその技を引き継いできた。お前にはまだ早いが、これもいい機会だと思っている」
 父は祖父を殺し、その死体を料理して家業を引き継いだのだ。そして、家業をわたしに引き継がせるときのこともずっと覚悟していたというのだろうか。
「無理よ……わたしには無理」
 そんなこと、できるはずがなかった。父を殺してその体を切り刻むなんて、想像すらできなかった。
「なら、あの男を料理しよう」
 父は立ち上がった。
 それまで呆然と成り行きを見守っていた九条が、近づいてくる父を見て顔を青ざめさせた。逃げようとする九条さんの肩を合田さんが掴んだ。父はいつの間に取り出したのか、愛用の包丁を手に握っている。
「待って!」
 わたしの制止の言葉に、父が歩みを止めた。ゆっくりと振り返った父の目が、わたしに問いかけてくる。
 覚悟はあるのか、と。
 サキの父親を助けるためには父を料理するしかない。さっきわたしは、サキの父親を助けるためなら何でもすると父に告げた。その誓いは嘘じゃない。でもそのために父を殺すなんて……。秤に架けるものが互いに大きすぎて、わたしにはそのどちらも背負いきれない。
 だがそう悩んだのもほんの束の間のことだった。
 父の目がわたしにこういっていたのだ。やれ、と。父はそれを望んでいる。自分が娘に殺され、料理されることを望んでいる。
 わたしは大きく息を吐いた。
 きっと父はわたしが手伝いをするようになったときから、ずっと覚悟を決めてこのときが来るのを待ち望んでいたのだろう。
 なら、その父の願いをわたしは叶えてあげなくてはならない。九条さんのことがなくても、父はいつかわたしに同じことをさせたはずだから。
 これはわたしたち浦木の人間が乗り越えなければならない道なのだ。父もそれを乗り越えてきた。わたしにもできる。覚悟を決めるんだ。
「……やるわ」
 父の手から包丁を受け取った。その刃は、信じられないぐらい重かった。父もこうして、祖父の手から包丁を受け取ったのだろうか。
 父が再び中央の椅子に座った。
「……目隠しは?」
 震える声で父に尋ねる。だが、父は静かに首を振った。
 わたしは目隠しをしてほしかったのに。
 きっと他人なら、初めての殺しでもわたしは上手くやれただろう。でも、父はわたしにとってただ一人の家族だ。何も感じないままその命を奪うことなんてできるはずがない。
 そのとき、わたしは気付いた。父の肘掛けに置いた腕。その手が、かすかに震えていることに。
 父も怖いのだ。今から自分の娘に殺されようとしているのだから。覚悟を決めていたとしても、恐怖を消しさることはできない。だが父はわたしにそんな素振りを見せず、強靭な意志で死に赴こうとしている。
 このとき、わたしは本当に覚悟を決めた。父のためにも、中途半端な覚悟で行うわけにはいかなかった。
 頭の中で何かのスイッチが入ったような気がした。浦木の人間の裡に宿る鬼が、わたしの意識と一つになったのかもしれない。
 わたしは背後から父の首筋に包丁を当てた。いつも父がそうするように。
「お前を愛してた」
 父が呟くように言う。
「……うん。わたしも」
 涙はでなかった。家の食卓で自然に会話を交わしているように心は穏やかだった。父の首筋を切り裂く瞬間まで、わたしは自分への父の愛を全身に感じていた。

「わたしの作った父の料理は、美味しくありませんでしたか?」
 わたしは梧桐会長に尋ねた。
 気付くと涙が頬を伝っていた。父を殺すときにも流れなかった涙が。
 わたしの涙を見て、部屋中の人間が驚いた顔をした。浦木の人間が泣いているのを見たのは初めてなのだろう。
 会長は無言のまま立ち上がった。ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
 わたしは殺されるのだろうと思った。
 それなら、それでもいい。
 九条さんは合田さんに頼んで、もうビルの外に逃がしてもらってある。借金が無くなったとはいえ、これから一から出直すことになるのだから、生易しい道ではないだろう。でも、九条さんには奥さんもサキもついている。きっと立ち直ってくれるはずだ。
 九条さんには、ここで起こったことをサキには何も言わないように頼んであった。
 ――サキ。
 父がいなくなった今、わたしにとって大事な人はサキだけになってしまった。これから殺されるのなら、彼女の幸福だけを願おう。わたしは死んでしまっても、父があの世で待っているから寂しくはない。
 会長はわたしの前まで来ると、膝をついて座り込んだ。
「すまなかった」
 そう口にすると会長は頭を下げて土下座した。畳に額を擦りつけるほどに、深く。
 信じられなかった。
 まだ十八にもならない小娘に、蒼人会の会長が頭を下げたのだ。わたしは激しく動揺する。しかも会長に続いて部屋にいる全員が、わたしに向かって土下座しはじめたのだ。彼らがわたしを見る視線には畏敬の念が込められていた。
「実に、素晴らしい料理だった」
 会長は頭を上げると、真剣な口調でそう告げた。
 わたしの作った料理が父の作ったものより美味しかったはずはない。もし美味しかったとすれば、それは父という食材が最高のものだったからだ。きっと父は、わたしに家業を継がせるときのために、自分の体調を整え続けてきたのだろう。
 それもまた、父のわたしへの愛情だったのかもしれない。
 会長が再び頭を下げる。
「どうかお願いする。これからも、我々のために料理を作り続けてほしい」
 わたしは涙を指先で拭った。手を床に突いて頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」

     七

 ひさしぶりに会うサキは少し痩せたように見えた。
 日出町駅のホームは、平日の昼間とあってほとんど人はいない。わたしとサキはホームの片隅でベンチに座っている。
 わたしはさっき学校を抜け出してここに来たので制服を着ているけれど、サキはチェック柄のワンピースに鍔の広い帽子を被っている。手足は日に当たったことがないんじゃないかと心配するほどに白く細い。彼女の顔には少しだけ笑顔が戻ってきていた。
「来てもらってごめんね」
 サキが申し訳なさそうに言う。
「ううん。大丈夫」
 わたしはサキを元気付けようと明るくそう答えた。
 会食のあの日以来、サキは学校に来なくなった。携帯に電話しても一度も出てくれなかった。わたしは心配して何度もサキの家に行ったけれど、もうサキの家族は家を出てしまったらしく無人の空き家になっていた。
 それから一週間が経った昨日の夜、サキから急に連絡が入った。
「転校することになったの」
 サキは弱々しい口調だった。話を聞くと、今はホテルに泊まっているらしかった。
「どこに……転校するの?」
 わたしは尋ねた。あの日、わたしは唯一の家族を失った。なのにサキまで遠くへ行ってしまうなんてあまりに辛すぎる。
「それは言っちゃいけないってお父さんが……」
「出発はいつ?」
「……明日の昼」
「見送りに行くよ」
 そう言って、聞き出したのがこの駅のホームだった。サキの両親はさっき少しだけ挨拶したけれど、父親のほうはわたしと目も合わせてくれなかった。それも仕方のないことだけど。
「ごめんね、サキ。わたし、何の力にもなれなかった」
 サキの父親のことを調べるって言ったのに、わたしは結局、何もできなかったのだ。サキの父親を助けはしたけれど、そのことをサキは知らない。
 サキは小さく微笑むと首を横に振った。
「わたしね……アスカが羨ましかったんだ」
 突然のサキの言葉に、わたしは「えっ?」と声をあげた。
「まだ友達になる前からわたし、アスカのこと知ってたんだよ。アスカは教室でいつも一人だったけど、そんなことなんとも思っていないように見えた。同じ教室にいるのに、サキは別のところを見ているみたいで、クラスメイトのことなんてどうでもいいんだろうなって。わたしは、そうやって一人で生きていけるアスカがすごく羨ましかった」
 サキがそんなふうにわたしを見ていたなんて知らなかった。それに、それは勘違いだ。わたしは一人でなんて生きていけない。本当は、サキが遠くに行ってしまうことだって、心がバラバラになりそうなぐらい悲しいのだから。
「だから、アスカと友達になれてよかった。おかげでわたしも少しは強くなれたような気がするし」
 そう言って、サキは笑った。
 電車がホームに入ってくる。別れの時間だった。九条さんたちが電車に乗り込み、サキもそれに続いた。
 扉の前でサキは言った。
「また、会えるよね」
「うん。絶対」
 それが別れの言葉になった。電車に乗って遠ざかっていくサキをわたしは見送った。
 電車が完全に見えなくなると、急に涙がこみ上げてきた。ああもう、という気持ちになってわたしは目を強く擦った。強くなるんだ、と自分に言い聞かせて。
「これでよかったのかい?」
 突然、後ろから声がした。
 いきなりのことに驚いて振り返ると、そこには合田さんが立っていた。
「……どうしてここにいるんですか?」
 合田さんは少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いや、じつは君が逃げるんじゃないかと思ってね。悪いけど見張りを付けていたんだ」
「ああ、なるほど」
 あの日から一週間、人肉料理人の仕事を続けるとは言ったものの、合田さんたちからすればわたしはまだほんの小娘だ。怖くなって逃げ出したっておかしくない。
「それで、逃げるつもりはないのかい?」
 合田さんの顔は笑っていた。わたしがどう答えるのか、きっと合田さんはもうわかっているのだろう。でも、もしわたしが逃げるって言ったらこの人はどうするつもりなのだろうか。
 少し悔しくなってわたしは言ってやった。
「ええ、ありませんとも。合田さんがいつかわたしを食べる日まではね」
 合田さんが驚いたように目を白黒させる。
 わたしはそれを見て声を上げて笑った。

     (了)

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