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青山祐の暗黒小説
   「インスタントブレイン」

   一

 ――プツン。

 瞬き一つしたとしか感じない。だがそれだけで、疲れの溜まっていた頭はすっかり軽くなっていた。光沢のある土台の上に柔らかいクッション。横になると頭部側が扇状に張り出し、頭をすっぽりと覆う。そんな寝心地抜群のベッドから、俺は身を起こした。
 このベッドは、『インスタントブレイン』と呼ばれている。横になるだけで疲れていない新しい脳と交換してくれるのが主な機能だ。もちろんただまっさらな脳と交換したって仕方がない。新しい脳は交換前の脳の記憶を引き継ぎ、連続的な意識を保っている。使用済みの脳は記憶を消去され、次の交換までインスタントブレインの中で保管されることになる。
 立ちあがって自分の部屋を見渡した。部屋の様子は覚えている通りだった。この部屋にインスタントブレイン以外の家具はないためガランとした部屋の中に変化は起こりようもないのだが、それでも埃の立ち具合だとか、生活の匂いといったものは毎日わずかずつ違っている。俺はそれを感じ取って、自分の記憶に断絶はないと判断した。つまり今日もエラーを起こすことなく、ちゃんと交換作業が行われたことを確認したわけだ。
 壁に掛けられた時計に眼をやった。今では珍しくなったアナログ式の時計は、午前四時四分を指している。ベッドに横になってから、まだ五分ほどしか経っていない。
 インスタントブレインという呼び名は、脳の交換作業がスムーズに行われることから名付けられた。今やこの装置は、現代を生きる者にとってなくてはならない存在となっている。製造会社も主力商品であるこの装置に合わせて、インスタントブレイン社と名を改めたほどだ。まあ、もとの社名が何だったかなんて誰も覚えちゃいないんだが。
 立ち上がり背筋を伸ばした。脳の疲れは取れても、体はそうはいかない。そろそろ体も交換しに行くべきか。だが今は仕事に行くのが先決だ。
 昨日と同じくたびれたスーツを着たままだった俺は、まだそれほどくたびれていないスーツへと着替え、洗面所で髭を剃った。
 洗面台の鏡にはさっぱりとした二十代半ばの顔が映っている。二枚目とも三枚目ともつかない特徴の無い顔だ。髪は耳に掛かる程度の長さだが、額から襟足までの生え際をよく見ると、頭部を囲むようにうっすらと切れ目が入っている。アタッチメント化された頭部の切れ込みだ。俺は切れ目を軽く指でなぞった。痛みはない。
 インスタントブレインが短時間で脳の交換作業を終えることが出来るのは、あらかじめ使用者の頭部が取り外し可能な状態になっているからだ。そのため使用者の頭部にはこのような切れ目が入ることになる。だがそれも、間近で観察してなんとか分かる程度でしかない。
「さて、仕事に行くか」
 身支度を整えると、家を出た。俺の住んでいるマンションは二十階建てのまだ新しい建物だ。周囲には似たようなマンションが所狭しと並んでいる。高速エレベータを降り、駅へと向かって歩き出した。まだ太陽は顔を出していないが、この区画の中心から天に向かって突き出している人工太陽が辺りを燦々と照らしだしている。
 駅へ向かう途中、マンションの間に挟まれた小さな公園があった。豊かな緑が植えられ、フェンスに囲まれた憩いの場となっているそこでは、子供たちが走り回り、母親たちが談笑していた。公園の前を通り掛かった俺は、フェンス越しに子供たちの姿を眺めながら駅へと歩いた。通勤時に、遊んでいる子供の姿を見るのが俺の日課だった。
 インスタントブレインが普及してからというもの、大半の人間が夜間も活動するようになっていた。子供たちは親に生活習慣を合わせているため、昼夜の別なくいつだって公園で遊んでいる。
 俺と同じように通り掛かる人々は皆、公園へと目を向けていた。彼らが子供を見る目は優しいものだったが、女性が母親へと向ける視線には羨望が混じっている。
 この時代、子供を持つことが出来るのは一部の者だけなのだ。インスタントブレインが普及したせいで、人間の寿命は半永久的なものとなったが、人口問題もまた深刻になっている。増え続ける人口に歯止めを掛けるため、出産は許可制となっていた。
 公園の中にいる母親たちは、言うなれば選ばれた者だ。母親は自分と子供の姿を見られることで、優越感に浸っている。
 あなた達と違ってわたしは子供を生むことが出来るのよ、と。
 そんな母親の内心とは関係なく、子供たちは無邪気に遊んでいた。子供に罪はない。あの子たちもいずれ時期がくれば、インスタントブレインを使うようになるのだろう。だが、それまでは無邪気なままでいてくれることを俺は願っていた。
 駅に着いた俺は改札を抜けた。完全自動化された改札は、脳内部に埋め込まれたICチップを自動的に識別している。つまり改札を抜けたことによって、俺の口座から僅かな金が駅の運営会社へと送られていた。
 ホームは人で溢れていた。いつものことだ。人口が多すぎるのだから当然だった。人でごった返すホームで待つこと一分。電車が駅へと到着した。超電導リニアカーだ。走行時の摩擦抵抗はまったくない。おかげで電車の走行速度は時速五百キロを越えた。それでも走行時の揺れはほとんどなく、快適な旅が約束されている。ただ、車内が満員でなければの話だが。
 俺は男性専用車両と書かれた車両へと入った。汗臭い匂いでむっとする。しかしこれも仕方のないことだ。女性と同じ車両に乗ること自体セクハラになる時代なのだから。
 目的の駅まではおよそ十分ほどで到着した。途中、五つの駅で停車し、その度に車内の人口密度は増していった。俺の降りる駅は都市の中心部。商業都市の入口にあたるから皆、そこで降りた。いや、降りたというよりも流れに身をまかせたと言ったほうが適切だ。人であふれたホームから改札の出口までは何もしなくても押されていくのでただその流れに乗るだけだった。
 改札から吐き出されるように俺は街に出た。会社まではタクシーに乗る。これも自動化されたロボットタクシーだ。駅前のロータリーで後部ドアを開けて乗客を待っている一台に俺は乗り込んだ。
「ドチラマデ?」
 運転手が振り返って人工音声で問いかけた。その顔は白人の二枚目男性をモデルにしている。本当ならこんなロボット臭い声で話し掛けずに人間らしい合成音を出すことも出来るのだが、それをすると人間とロボットの見分けが付かなくなるので今でも人工音声のままだ。
「会社だ」
 俺が言ったのはそれだけだった。すでに車内に設置されているセンサーによって俺の個体は識別されている。会社だと伝えるだけで、俺の個人データベースをロボットは検索し、会社がどこにあるのか、どういったルートを通るのが最短なのかを導き出している。
 滑るようにタクシーは発進した。会社に到着するまで俺は前部シートの後ろに取り付けられた平面立体テレビを見ることにした。チャンネルはもちろんCNNだ。リスト化されたニュースの中から、必要なものをいくつかピックアップする。一つのニュースで約十五秒。昔のCM並みに必要な情報だけを的確に伝えてくれる。
 五十ほどのニュースを見終わったところで会社に到着した。百階建ての超高層ビル。そこは大手電気メーカーの本社だった。スーツ姿の人々が吸い込まれるように入っていく。このビルに一体どれほどの人が勤めているのか俺は知らなかった。もしかしたら一万人以上が勤めているかもしれない。データベースを検索すればすぐに分かることだが、調べたことはない。知っても仕方のないことだからだ。タクシーを降りると俺はまた人の流れとともにビルの玄関ロビーを通り過ぎ、エレベータに乗っていた。
 二十四階でエレベータから降りた俺は、総務課がずらりと並ぶ中、その一つである総務四課と書かれた部屋に入った。そこでは百人ほどの課員がデスクワークに勤しんでいる。
「おはよう、矢野君」
 自分のデスクへと腰を下ろした俺は、隣の席の井上さんに声を掛けられた。
「おはようございます、井上さん」
 俺はにこやかに挨拶を返した。井上さんの顔は寝不足らしくかなりやつれている。とはいえそれはいつものことだった。五十手前である井上さんは、まだインスタントブレインを使用していない。
「昨日頼んでいた書類だけど、もう出来ているかい?」
 井上さんがそう尋ねてきた。その口調はまるでお上にお伺いを立てるかのような弱々しさだ。
「ええ」
 俺はデスクの引き出しの中から、一枚のメディアを井上さんに渡した。書類はもちろん電子化されている。
「いつもすまないね。矢野君は仕事が速くて助かるよ」
 俺は井上さんの分の仕事を頼まれていたのだった。
 インスタントブレインが普及したこの時代、平均労働時間は十六時間に増え、残業を含めると労働が二十時間に及ぶことはざらになっている。それでも、一部にはインスタントブレインを使用していない人間はいた。井上さんもその一人だ。この歳になって出世していない理由もそのあたりにあるのだろう。どうしても睡眠不足となってしまう井上さんのために、俺はたまに彼の分の仕事をこなしてやっていた。
「井上さんもそろそろ使ったらどうですか?」
 俺は自分の頭を指しながらそう口にした。井上さんにはこれまで何度も同じことを言ってきたが、彼はずっと断り続けていた。そして、今回もまた同じ返事が返ってきた。
「私はどうも脳を弄くるという行為が受け入れられんのだよ」
 井上さんが後退しかかった頭を撫でる。
「難しく考え過ぎなんじゃないですか?」先ほどタクシーの中で見たニュースのことを思い出しながら言った。「近頃は子供でさえインスタントブレインを使っているそうですよ。進学校の子供なんですが、一日中勉強して、疲れたらインスタントブレインで脳を取り替えるそうです」
 井上さんは顔をしかめる。
「まったく嫌な世の中になったものだ」
「仕方ありませんよ。これも時代の流れというものです」
 井上さんは溜め息を吐くと、仕事に戻っていった。
 俺も自分の仕事へと取り掛かった。

   二

 昼の到来を告げるチャイムの音が、スピーカーから鳴り響いた。こればかりはいつの時代も変わらない。もの凄い速さで次から次へと押し寄せる書類の群れを捌いていた俺は、その音を聞いてようやく手を休めた。
 同僚たちも同様に手を休め、弁当を広げたり、外へと食べに出始める。俺は仲のいい坂本という同僚に声を掛けられたので、一緒に外へと食べに出ることにした。
 坂本は俺と同期の男だ。髪を短く刈っており、がっしりした体格が俺とは対照的だった。
 ビルから俺たちは外へ出た。
「久しぶりにあそこへ食いに行かないか」
 坂本が言った。
「そうするか」
 俺に異論はない。
 あそことは、俺たちがよく行く食堂のことだった。昔懐かしい落ち着いた雰囲気が気に入っている。職場から少し歩いたビルの一階がテナントになっており、軒を連ねる店舗の一つにその店はあった。日本家屋のような外観は他の店から明らかに浮いている。引き戸となった入り口が今では珍しい。
 俺たちは店まで歩くと、引き戸を開けて中へと入った。
「へい、らっしゃい」
 店の主人がカウンターの向こうから俺たちに声を掛けた。四十代らしきその主人は、髭を生やした顔に凄みはあるが人当りのいい人物だ。
 店の内部は特殊合金でもコンクリートでもなく、温かみのある木造だった。壁と床は板張りになっており、木の趣きを感じさせる木目が浮き上がって見えた。
 俺たちは入り口に近いカウンターへと腰を下ろした。もちろんカウンターも椅子も木製だ。
「何にしましょう」
 威勢のいい主人が笑顔で注文を聞いてきた。壁にメニューが並んでおり、品目を書いた板が一つ一つ掛けられている。
 俺はチキンカツ定食を、坂本はカツ丼を注文した。出来上がるまでの間、俺たちは店の隅に置かれた旧式のテレビを見ることにした。
 テレビの中では巨漢の男二人が、リングの上で取っ組み合いの乱闘を繰り広げていた。空中に飛び上がった片方の男が、回転しながら相手の後ろを取り首を絞める。首を絞められた男は、絞められた首を軸に飛び上がって逃れた。それはまるで人間の動きとは思えない。
「すごいよな、あの二人。どんなインスタントボディを使っているんだろう」
 坂本が言った。
 インスタントボディは交換用の体のことだ。脳が簡単に交換出来るようになったことで、当然、体の交換も容易になった。元々軍事用として開発された技術のため、テレビの男たちのように強化した体に交換することも出来る。
「俺もそろそろ交換しに行かないとな」
 実はもう一週間もインスタントボディを交換していなかった。脳は毎日自宅で交換しているが、体はそういうわけにはいかない。俺のようなデスクワークではそれほど頻繁に交換する必要はないが、それでも一週間ほどが限界だ。
「俺は昨日交換してきたからまだまだいけるぜ」
 坂本が丸太のような腕を見せ付けて言った。
「また筋肉質になったな」
 坂本は入社した頃は痩せた体だったが、強さに憧れがあるのか取り替える度にインスタントボディを強化している。今ではテレビに映る巨漢の男達と比べても遜色ないほどだ。
「お前もたまには強化しろよ。そんなヒョロヒョロの体じゃモテないぜ」
「俺はこの体が気に入ってるんだ」
 同一の遺伝子情報を持ったクローンから作り出される脳と体は、本人の忠実なコピーとして再現される。俺は十八の時からインスタントブレインとインスタントボディを使用しているが、どちらもオリジナルの状態からカスタマイズしたことはなかった。カスタマイズすることで、自分のものと思えなくなる気がしたからだ。
「まぁ、お前がいいならいいんだけどよ」
 その時注文した料理が運ばれてきたので、会話は中断された。

 休み時間ギリギリに俺が職場へ戻ると、総務四課の部屋から課長の怒鳴り声が聞こえてきた。
「いい加減にしたまえ!」
 その声に俺は部屋へ入ることを躊躇したが、戻らないわけにもいかず部屋へと入った。総務四課の課員全員が、課長の席へと神経を尖らせているのが分かる。だが誰もが見て見ぬ振りをしていた。
「申し訳ありません」
 そう言って深々と頭を下げていたのは井上さんだった。課長のデスクの前に立つ姿は、ライオンを前にした子ウサギよりも弱々しく見える。俺は井上さんのことが気になりつつも、静かに自分のデスクへと戻った。
「何で君はこんな初歩的なミスをするのかね?」
 課長が手に持った電子ブックをバンと叩いて言った。恐らく井上さんが提出したデータに計算ミスでもあったのだろう。
 課長は四十代の精力的な男だ。頭は見事に禿上がっており、インスタントブレインの使用者特有の切れ込みがはっきりと目立っていた。しかしそれは威圧的な印象を部下に与えることに成功している。
 井上さんは課長の質問に何も答えなかった。ただただ平身低頭で眼の前の嵐が過ぎるのを待っていた。
「うちの課で君だけがインスタントブレインを使っていないことは知っている。だが何故インスタントブレインを使わないんだね? オリジナルブレインを使い続けることが危険だと言う事は分かっているだろう」
「……はい」
 井上さんにはそう答えるしかなかった。
 これまで課長の怒りの矛先はずっと井上さんに向けられている。この課でインスタントブレインを使用していないのは井上さんだけだからだ。オリジナルブレインの使用者とインスタントブレインの使用者では仕事の能率がはっきりと違う。課長の怒りも分からないではなかった。
 だが課長の我慢もついに限界を迎えたようだ。
「もし今度、同じようなミスをしたら君はクビだ」
 はっきりとそう告げる。それは死刑宣告も同然だった。
 人口の増加により失業者は溢れかえっている。一度、クビになった人間が再就職出来る見込みはほとんどない。それもインスタントブレインを使用していないとなれば尚更だ。
「失礼します」
 井上さんは真っ青な顔で課長に頭を下げた。隣の席へと戻ってくる。俺の心配そうな顔を見て、井上さんは力無く笑った。
「ついに私も時が来たようだよ」
 井上さんは自分の頭を指してそう言った。
 俺は何も答えることが出来なかった。

 仕事が終わったのは、終業時間である午後九時だった。今夜は残業しなくてもいいらしい。帰り支度をしていた俺のもとに坂本がやってきた。
「今から飲みに行かないか」
 坂本が俺に声を掛ける。
「悪いな。今日はボディバンクに寄っていくつもりなんだ」
 ボディバンクは、インスタントブレインの使用者が利用する、スペアボディの保管所だった。それもただ預かるだけではない。インスタントブレイン社の直営であるボディバンクでは、メンテナンスからカスタマイズまで請け負っている。
「そういえば昼間そんなこと言ってたな。お前もたまにはカスタマイズしろよ。いつも同じじゃつまらないぜ」
「考えとくよ」
「俺はいつものバーで飲んでるから暇だったら顔出せよ」
 坂本はそう言って部屋から出て行った。
 俺は隣の席でパソコンの画面を前にしている井上さんに声を掛けた。
「おつかれさまです」
「ああ、おつかれさま」
 井上さんはキーボードを叩く手を休めて俺にそう挨拶を返した。
「今日も残業ですか?」
 井上さんの顔には色濃い疲労のあとが見えた。仕事の遅い彼は、ほとんど毎日のように残業している。
「いや、もう終わるところだよ。実は今日、帰りにインスタントブレインを買いに行くつもりなんだ」
 そう言った井上さんの顔は寝不足のはずなのに何故か晴れやかに見えた。
「……いいんですか?」
 俺の口からそんな言葉が出た。これまで俺は井上さんにインスタントブレインを勧めていたが、それは彼が断ることを前提としてのことだった。彼の強い意志を俺は尊敬していたのだ。
「私ももう歳だからね。前からそろそろとは思っていたんだ。なかなか踏ん切りがつかなかったんだが、今日のことはいいきっかけになったよ」
 井上さんの決心は固いようだった。
「そうですか……」
 俺は井上さんのことを思うと素直には頷けなかった。
 井上さんの妻は敬虔なクリスチャンでインスタントブレインに対して否定的だからだ。夫がインスタントブレインを使うなんて彼女にしてみれば耐え難いことだろう。
 井上さんがどういう気持ちで決断したかは察するに余りあった。
「井上さんおつかれさまでした」
 俺はそう言って頭を下げた。彼の決断に水を差すことはできない。
 俺は井上さんを残して部屋をあとにした。

   三

 駅前にある何の変哲もないビルが、俺の利用しているボディバンクだ。そこには途切れることなく人々が出入りしている。
 ボディバンクから出てきた一人の女に俺は眼を惹かれた。
 その女は二十歳前後で派手な化粧をしていた。化粧のため分かりにくいが、顔の造作は並より少し上といった程度だろう。だが驚くべきはその体だ。胸から腰を通り、お尻へと達するラインは理想的な曲線を描いている。
 女は俺の視線に気付くと片目を瞑ってウインクをして見せた。
 だが俺は女に興味があったわけではない。よく出来た芸術品を眺めていたようなものだ。
 俺は視線を戻すと、何事も無かったようにボディバンクの入口へと向かった。後ろで女がムッとした表情をしているだろうが、そんなことはどうでもよかった。
 ボディバンクの中はまるで病院のロビーのようだ。受付に置かれた機械から番号の書かれた紙を受け取る。ロビーは混雑していたが、幸い空いているベンチがあった。エナメル革が張られた安物のベンチだ。そこでは老若男女様々な人々が自分の番号が呼ばれるのを待っている。だがそれはあくまで訪れる人間が多いために常時大量の順番待ちが出来ているだけだ。ボディバンクは完全にコンピュータ管理されており、来訪者の人数はあらかじめ予測されている。そして、それに対する処理能力もまた十分に用意されていた。
 順番待ちをする人々が次々に呼ばれていき、俺の番号が呼ばれるまで待っていたのはわずか三分ほどのことだった。
「矢野さんですね。奥の扉から通路へと進んでください。通路では左右に扉が並んでいますので、六と書かれた扉にお入りください。中に係員がいますので、あとは彼の指示に従ってください」
 同じ言葉を何度も繰り返しているのだろう。受付の女は機械的にそう告げた。
 俺は言われた通り奥の扉へと進んだ。扉の向こうは通路になっていて、かなり間隔を空けて扉が左右に並んでいた。
 いつも六番だなと俺は思った。これまで何度もここへ来ている俺は、躊躇わずに廊下を進む。
 右手から数えて三番目の扉が目的の部屋だった。俺は部屋の中へと入った。
 無機質なベッドが一つと計器類がいくつかあるだけの殺風景な部屋。奥にもう一つ扉がある。俺はベッドへと横になった。いつもならすぐに奥の扉からエンジニアが担架を押して出てくる。そして手際よく交換作業へと入るのだ。
 だが今日はどうしたことか、数分待っても誰も出て来なかった。五分待ったところで俺は痺れを切らした。他人の時間を奪うのは罪だという風潮がこの時代にはある。俺は起き上がると奥の扉を開けて中に入っていった。
 部屋の中に入ると、作業服を着た四十ほどに見える男がデスクの前で何やら作業をしていた。デスクの上にはいくつものモニターが並び、コンピュータに接続されていた。おそらく彼がエンジニアだろう。俺が入って来ても気づいた様子はない。男の意識はモニターに映る何かへ注がれているらしい。
 部屋の中はかなりの広さがあるようだった。だがはっきりと見えるのは、俺が今いる入口付近の一角だけだ。それ以外の場所は暗闇に閉ざされている。遠くのほうにぼんやりと赤や青といった小さな光が瞬いているのが見えた。
 俺は男の後ろへゆっくりと近づいた。彼が何をしているのか気になったからだ。
 男の前に置かれたモニターにはアルファベッドのA、G、C、Tしか表示されていなかった。種類は四つだけだが、それは膨大な数で画面を埋め尽くしている。男はものすごい速さでキーボードを叩き、アルファベットの配列を書き換えていた。
 男の後ろに立つと、ようやく彼は俺の存在に気がついた。
「うわっ! なんだあんたは!?」
 男は吃驚して言った。
「すみません。いくら待っても誰も来なかったので」
「あ……」
 男はモニターの一つに眼を向けた。
「ああ、いつの間に。呼ばれていたのに気付かなかった。申し訳ない」
「いえ、いいんですよ」
 俺はこの奥の部屋に入るのは初めてだった。男が一体何の作業をしていたのかそのことに興味が移る。
「それは何をしているんですか?」
「ええっと、これは依頼者の希望通りに遺伝子を書き換えているんです」
 俺は驚いた。
「手作業なんですか?」
「まさか。大抵はプログラムに任せていますよ。腰を細くするとか、胸をでかくするとか単純なやつはそれで十分なんですけど、たまに微調整が必要なやつなんかはこうした手作業ですね。ところであなたはボディの交換に来たんじゃないんですか?」
「ああ、そうでした。お願いできますか」
 男はモニターの画面を切り替える。
「矢野さんですね。三十四番に保管されてるやつだ。ちょっと待っててくださいよ」
 モニターから俺の情報を読み取ったらしい。男がまたモニターを操作すると部屋の中が急に眩しくなった。おかげで部屋の様子が見えるようになる。
 部屋は小さなホールほどの広さがあった。床に二メートルほどもある巨大なカプセルが等間隔で並べられている。カプセルの上面は透明なガラスで覆われているが、内部が何か特別な気体で満たされているのかガラスは曇っていた。その半透明のガラス越しに、中に入っているものが眼に入る。
 そこに入っているのは人間だった。すべてのカプセルに人間が納められている。
 だがカプセルに入っている人間には頭部がなかった。彼らはすべて俺のような利用者のためのクローンなのだ。頭部は交換時に嵌め込まれることになるのだろう。そうしたクローンたちの体のあちこちには配線が差し込まれていた。それが生命の維持とメンテナンスに利用されているらしい。
 俺はそうした部屋の光景を眺めながら、担架を押す男のあとに続いてカプセルの間を歩いた。
「ああ、これだ」
 男が足を止めたカプセルには完全に俺と同じクローンが収められていた。二十代半ばの特徴のない男。いや、今は頭部がないという立派な特徴を備えている。自分を見るというのは妙な気分だった。普段、俺が自分自身のクローンを見ることはない。白いシーツで覆われた担架を見るだけで、交換は俺の意識がない状態で行われるからだ。
「では運びますね」
 男が言うと、カプセルの脇にあるスイッチを押した。ぷしゅっと音を立ててカプセルが開く。男は慎重にクローンの体に繋がった配線を取り外していった。カプセルの脇は開くようになっており、そこから男は転がすようにして担架へと俺のインスタントボディを載せた。手慣れた動きだった。担架にシーツを被せてその姿を隠す。
「戻りましょうか」
 俺は頷くと来た道を戻り始めた。最初の部屋まで引き返すと「ベッドに横になってください」と指示が出たのでそれに従う。
 ここからはいつもと同じだった。男が俺の腕の袖を捲り上げると、ガンタイプの注射器を射ち込んだ。強力な麻酔薬であるその薬は、俺の意識を一瞬で奪い去っていった。

 眼を覚ますともう交換は終わっていた。「おつかれさまでした」という男の声。ベッドの上で上半身を起こす。体が軽くなっていた。
「違和感はないですか?」
 俺は手を握って開いたり、首を回したりしたが特にこれといって支障はないようだった。
「大丈夫みたいですね。それでは今回お預かりした体ですが、特に変更したい部分はありませんか?」
 男が何やら端末のようなものを操作しながら尋ねてきた。
 部屋の様子は変わっていなかった。担架が近くに置かれているが、そこには眠る前と同じようにインスタントボディが載せられていた。シーツが被せられその姿は見えない。だがそれは先ほどまで俺が動かしていた体のはずだ。
「いえ、いつもと同じでお願いします」
 俺が言うと男がうーんと唸った。
「近頃ではあなたのような人は珍しいですね。まだ一度もボディのカスタマイズはしていないみたいですし。大抵のお客さんは毎回あれこれ注文を付けられるんですよ。まあこっちとしては何も注文がないほうがありがたいんですが」
 男の言葉に俺は苦笑する。
「何かこだわりでもあるんですか?」
 男が尋ねる。
「別にそういうわけでは……」
 その時俺は気付いた。彼の頭部に切れ込みが入っていないことに。
「あなたはインスタントブレインを使っていないんですか?」
 俺は質問を返した。今度は男が苦笑する番だった。
「こういう仕事をしてると、インスタントブレインを使おうという気にはなりませんよ。まあ、だからこそいまだに交換員なんてやっているんですがね。脳と体を取り換えてまで働くのなんて馬鹿らしいじゃないですか。本来、人間は精一杯生きて、そして死んでいくのが自然なんですよ。そうは思いませんか?」
 男の言いたいことは分からないでもなかった。だが彼のような考えを持つ人間は、今の時代ではごく少数派だ。そんな甘い考えでは、この厳しい世の中を生き抜いていくことは出来ない。
 男はそこでようやく、俺の険しい表情に気付いたようだった。
「すみません。つい無駄話をしてしまいましたね」男は取り繕うように言った。「さっきも言ったようにインスタントボディに注文を付けるお客さんが多いんですよ。あなたのような人なら、分かってもらえるんじゃないかと思ってつい愚痴ってしまいました。忘れてください」
 それ以降、男は事務的なことだけしか言わなくなった。先ほどとは違い、死んだ魚のような眼に変わっていた。人生に疲れた眼だ。俺もこんな眼をしているのだろうか。
 俺は彼に礼を言ってその場をあとにした。

   四

 腕時計を見ると午後十一時だった。まだまだ宵の口だ。始業時間が午前五時だから家には遅くとも四時までに帰ればいい。どうせ脳を交換すればすぐにリフレッシュできるのだから。
 俺は坂本のいるバーへと向かうことにした。タクシーを拾ってそれに乗り込む。今は仕事のことを忘れたい気分だった。妙な話を聞かされたせいだろうか。今の世の中では井上やあのエンジニアのような弱い人間は淘汰されていくしかない。この実力社会で生き残っていくためには、なりふり構ってなどいられないのだ。
 バーには十五分ほどで着いた。繁華街の大通りから一本外れたところにある賑やかな店。俺がバーの扉を開けると、坂本はカウンターで飲んでいた。
「よう。ちょうどいいところに来たな」
 坂本の両隣りには女が二人連れ添っていた。彼はこういった場所でよくもてる。それも頑強なインスタントボディのおかげかもしれないが。女は二人とも二十代の中頃、俺たちと同世代に見えた。しかも、絶世の美女と言っていいほどの美貌だ。もちろんそれも作り物なのだろう。それでもこういった場所では外見の良し悪しが何よりものを言う。
 女の一人が席を空けてくれたので、俺は坂本の隣に腰掛けた。女は俺たち二人を挟むような位置だ。
「ボディは交換しなかったのか?」
 坂本が尋ねる。
「したとも」
 坂本は俺の体を頭のてっぺんから足のつま先まで舐めるように眺めた。
「何も変わってないじゃないか」
「それがいいのさ」
 俺はバーテンダーにウィスキーのロックを頼んだ。女が俺の腕へと手を絡めてきたので、なるべく自然な仕草でそれを解く。
「面白いもん見せてやるよ」
 そう言うと坂本は財布を取り出した。もう支払いを済ませるつもりなのだろうか、と俺は思った。だが彼が財布から取り出したのは、カードではなく五百円硬貨だった。今ではもう電子化されたお金以外は誰も持っていない。物理的な紙幣など何の意味も持たないのだ。五百円硬貨なんて使われていたのはもう随分昔のことだった。俺は久しぶりに硬貨を見て懐かしい気分になった。
「ほら、持ってみろよ」
 坂本が俺に手渡した硬貨はずっしりと重かった。一体どんな素材で出来ているのだろう。俺が坂本に硬貨を返すと、今度は女たちに回していった。
「うわあ」
 女たちが感嘆の声を上げた。彼女らはもしかすると外見通りの年齢なのかもしれない。それとも坂本の手前、興味のあるフリをしているのだろうか。
「どうだ、硬くて重いだろ」坂本が言うと女たちは頷いた。「まあ、俺のほどじゃないけどな」
 坂本の下品な冗談に女たちが笑い声を上げる。
「さてと」
 坂本はそう言うと、戻ってきた五百円硬貨の端を親指と人差し指で挟み込んだ。「ふん!」気合いの声とともに坂本の腕に力が入る。一瞬の後に、五百円硬貨はぐにゃりとくの字に曲がっていた。
 女たちが嬌声を上げながら大きく手を叩いた。坂本が腕の力瘤を見せつけて自身の力強さをアピールする。
 そのときだった。
「よう、随分盛り上がってるじゃねえか」
 近くのテーブルにいた三人組の男たちが声を掛けてきた。彼らは皆、がっしりした体と整った顔立ちをしていたが、どこか表情に締まりがなかった。外見は変えられても本質までは変えられない。そのせいで女が寄ってこないので腹いせに絡んできたらしい。
「まあね。おたくらも、もうちょっと品の良い顔してれば盛り上がれるんじゃないか」
 坂本が馬鹿にしたように言った。
「なんだと!」
 案の定、男たちは気分を害したようだ。険悪な空気に女たちの顔に不安の色が浮かぶ。
「まあそういきり立つなよ。一杯奢ってやるからさ、隅のほうで大人しくしてな」
 坂本の言葉はあきらかに逆効果だった。いや、彼はむしろ望んで挑発していたのかもしれない。カスタマイズした自分のボディに自信を持っているのだろう。
 男の一人が殴りかかってきたのを坂本は片手で受け止めた。金の掛け方が違うのか力は坂本のほうが上のようだ。
「この野郎!」
 乱闘が始まった。女たちは悲鳴を上げて逃げた。俺は巻き込まれたくなかったのだが、仲間だと思われたらしく男の一人が殴りかかってきた。いくらなんでも未改造のボディで勝てるわけがない。俺は殴られて床に転がった。それでも執拗に男は蹴りつけてきた。坂本がそんな俺を助けようと男を殴り付けた。彼はもうすでに他の二人を殴り倒していた。
 そのとき、俺は坂本の背中越しに嫌なものを見た。立ち上がった男の一人が懐からナイフを取り出したのだ。坂本は俺を助け起こそうと男に背を向けている。
「危ない、坂本!」
 俺は叫んだ。だが間に合わなかった。坂本が振り返った瞬間、その胸にナイフが突き入れられるのを俺は目にした。
「……くそっ」
 坂本が床に倒れる。それでも男たちは容赦せずその体に蹴りを入れた。俺にもだ。何発目かの蹴りが鳩尾へと入り、俺の意識は闇に溶けた。

   五

 眼を覚ましたのは繁華街の道端だった。すでに日は昇りかけている。こんなに眠ったのは久しぶりのことだった。意識を失くした俺はきっと、バーの従業員に外へと放り出されたのだろう。あちこちが痛む体をなんとか起こす。スーツはボロボロになっていた。体を一通り確認してみたが、とりあえず大きな怪我はないようだった。交換したばかりなので、すぐには交換用のボディは用意出来ない。それにあまりゆっくりしている時間もなさそうだった。もう出勤の時間だ。
 俺はタクシーを拾うとまず近くにあるデパートのトイレで簡単な傷の手当をした。それから安物のスーツを買いそれに着替える。デパートが二十四時間営業なのはこんな時にはありがたかった。
 身なりを整えた俺は、またタクシーに乗って会社へと向かった。時刻は午前六時半だった。すでに遅刻している。急がなければ。
 社のビルへと入り、エレベータで二十四階へと。さすがにこの時間にもなると出勤を急いでいる社員は他にいない。俺は課長への言い訳を考えながら、総務四課の扉をくぐった。
 誰もが自分の仕事に精を出していた。課長だけは俺が入ってきたことに気付いたようだが、何も言われなかった。俺を見てなぜかにこにこと笑みを見せたほどだ。何かあったのだろうか。こんな機嫌の良さそうな課長の姿を見るのは初めてだった。
 だが、その理由はすぐに明らかになった。自分のデスクへと座った俺の隣の席。井上さんの様子がいつもと違っていた。寝不足だった眼。慢性的な疲労の溜まった肩。それが今日の井上さんにはまったく見られなかった。晴れやかな表情で、てきぱきと仕事をこなしている。
「おはよう、矢野君」
 爽やかな挨拶だった。俺は内心いぶかりながらも「おはようございます」と挨拶を返した。
「君が遅刻するなんて珍しいね」
「すみません」
 俺は素直に謝った。
「いやいや、責めているんじゃないよ。君にはこれまで私の仕事を押しつけてばかりいたからね。たまには休息も必要だよ」
 井上さんの姿は自信に満ち溢れていた。
「ついにインスタントブレインを使ったんですか?」
 俺が尋ねると井上さんは大きく頷いた。
「ああ。これまでインスタントブレインを使わなかったのが馬鹿みたいだよ。こんなに清々しい気分で朝を迎えたのはひさしぶりだ」
 井上さんは不自然なほど明るかった。つい昨日まで課のお荷物として扱われていたのが嘘のようだ。
「井上君。ちょっと」
 課長が井上さんを呼んだ。井上さんは颯爽と立ち上がると、課長の席へと向かう。
「どうだね、井上君。インスタントブレインは素晴らしいだろう」
 二人の話し声が俺の耳に届く。
「ええ」
 井上さんの返事に課長も満足そうだった。
「ところで課長。前々から申請していた休暇の件なんですが……」
 井上さんは少し言い辛そうにそう切り出した。彼が休暇を申請していることは俺も知っていた。仕事の遅い井上さんは、もう何か月も休むことなく働き続けている。休暇が欲しくなるのも仕方のないところだった。
「なんだね、君。インスタントブレインにした途端、それかね」
 厭味がかった課長の言葉にも井上さんが怯むことはなかった。
「ですが、もう一年以上前から申請していたはずです。それに、妻には私がインスタントブレインを使ったことはまだ言っていないんです。妻を納得させるためにも、休暇を受理して頂けないでしょうか」
「待ちたまえ」課長は苛立っている様子だった。「たしかにインスタントブレインにしたことで仕事の能率は上がるだろう。しかしだね、遅れていた仕事をこれからようやく取り戻せるんじゃないか。今、休みを取るなんてことは駄目だ。遅延していた仕事をすべて終えてからにしたまえ」
「しかし課長……」
 食い下がろうとした井上さんの言葉を、課長が無情にも切って捨てた。
「話しは終わりだ」
 相変わらず融通の利かない課長だ。俺は反吐が出そうだった。だが、反吐を吐いたのは課長だった。
 突然、井上さんが近くにあった椅子を持ち上げた。誰もその行為の意味が分からなかった。だが次の瞬間、井上さんは椅子を課長の頭へと叩きつけた。
「ぐあっ」
 課長が椅子から転げ落ちる。さすがに他の課員も井上さんの突然の凶行に仕事の手を止めてそちらを見た。
「お前に、何が、分かるってんだ! この、仕事だけの、屑野郎が!」
 井上さんが何度も椅子を叩きつけた。叩きつける度に、課長の禿げた頭から血が流れた。
「やめてくれ!」
 課長が叫ぶ。誰も止めようとはしなかった。あの課長には誰もが恨みを持っている。もちろん、その筆頭は井上さんだ。だがそれ以前に、今の井上さんには誰も止めに入ることができない雰囲気があった。
 井上さんの顔は笑っていた。課長に椅子を叩きつける度にその笑みが深まっていくようだった。
「やめ、たすけ……」
 課長は虫の息だった。井上さんは笑みを見せたまま、とどめの一撃を叩き込んだ。その衝撃で課長の頭の切れ込み部分から頭部がすぽんと抜けた。床に落ちたそれを井上さんは至福の笑みで踏み潰した。
「井上さん……」
 俺はさすがに声を掛けた。
「ああ、実に清々しい気分だよ、矢野君。私がこれまで守ってきた人間の尊厳を今日全部失ってしまった。これがどういうことか分かるかい?」
 分かるような気がした。だが俺にも、もうそんなものはなかった。
「脳を取り換えたことで私は死んだんだよ。オリジナルブレイン。あれこそが人間の尊厳だったのだ。ああ! なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう! もう取り返しはつかない!」
 井上さんはそう言い終えるとふらふらと歩き出した。かと思うと、突然、走り出した。そして何か訳の分からないことを叫びながら、井上さんは姿を消した。ガラス窓の向こう側へと。
 井上さんは窓を突き破って外へ飛び出していた。二十四階から落ちてはどんなインスタントボディも跡形もないだろう。あとに残されたのは割れたガラスと、課長の死体だけだった。

 坂本が出勤してきたのは、午後になってからだった。彼は課に入ってくるなり、「何かあったのか?」と俺に聞いた。
 俺は井上さんが課長を殺して窓から飛び降りたことを坂本に告げた。彼は「ふうん」と興味なさそうに呟いただけだった。
「ところで、昨日何があったんだ?」
 坂本が俺に尋ねてきた。
「お前は昨日酔っ払って喧嘩になったあげくに刺されて死んだんだよ」
 俺はそう教えてやった。
「そうか。一日記憶がないとどうも気持ちが悪いな。まるで時差ボケみたいだ」
 坂本は昨夜、死亡が確認されたあと、インスタントブレイン社によって蘇生させられていた。なにせ社の製品はアフターサービスも万全だ。利用者の脳の記憶状態は、毎回新しい脳と取り換える度に、そのデータが社のサーバへと送られている。坂本はそのバックアップされた記憶から蘇生させられたため、昨日の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
「これでまた金が掛かるぜ」
 坂本が言った。
 インスタントブレイン社による蘇生サービスは有料だ。口座に金のない人間が死亡した場合、バックアップによるデータが残っていても蘇生されることはない。だからこそ皆、必死になって働き、生にしがみついている。
「死ぬよりはましさ」
 俺は言った。
「そうだな」
 坂本が笑う。
 インスタントブレインを利用しているものにとって、本当の意味での死はもう存在しなかった。すでに運び去られている課長の死体も、窓から飛び降りて跡形もなくなった井上さんの死体も、また明日になれば蘇生させられているはずだ。課長には殺された記憶はなく、井上さんには殺した記憶がない。課員さえ黙っていれば、今までと何も変わらないだろう。ただ、課長には井上さんの休みを通すようにそれとなくアドバイスは必要だろうが。

   六

 午前二時。仕事を終えて俺は帰宅した。課長と井上さんが欠けたことによって課員は全員、残業を余儀なくされた。くたくたになって俺が帰ってきたのは、家具も何もない部屋。ただ寝るためだけに帰ってきた。ほんの、五分だけの浅い眠りに。いや、俺はこの部屋へ死ぬために帰って来たのかもしれない。
 インスタントブレインの柔らかいベッドに横になる。使用者を認識したインスタントブレインは頭部側からゆっくりと動き出した。俺の頭をすっぽりと覆う。ウィーンという機械音。俺はこの音が嫌いだ。脳をスキャンされている音。俺の今日一日に起きた出来事をすべて読み取って、インスタントブレイン社のサーバへと送っている。
 五分後に目覚めた俺は、本当に今の自分と連続した自分なのだろうか。ふとそんなことを思った。井上さんの言った言葉が思い出される。人間の尊厳。そんなものはとうの昔に捨てた。生きていくためには仕方がなかった。
 俺は今日、目覚めた瞬間にこの世に生を受け、矢野という人格であると思い込み、インスタントブレインによって殺されているのかもしれない。明日の俺は、連続した記憶を持っていても、赤の他人なのだ。だがそれがなんだというのか。インスタントブレインを使っていなくても、眠る前の自分と起きたあとの自分が同じであると誰が言えるんだ。
 瞼が重くなってきた。インスタントブレインが睡眠機能を働かせたのだろう。段々と意識が遠のいていく。その眠りは、安らかだった。
「じゃあな」
 俺は呟いた。誰に向けて言ったのか自分でも分からなかった。もしかしたら俺自身に言ったのかもしれない。
 ひさしぶりに人間らしい言葉を言った気がして、俺は少しいい気分で夢を見ない眠りへと落ちていった。

 ――プツン。

     (了)

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