青山祐の書いた暗黒小説を公開しています。

青山祐の暗黒小説
     「いじめられら」

     一

 満場一致の拍手が教室に響いた。「おめでとう」と祝福の言葉を誰もが口にする。子どもたちの顔は喜びに輝いていた。その溢れんばかりの歓声を受けて、菊池幸也は一人、絶望の淵に立たされていた。普段から青白い顔が、今はまっさらな画用紙のように蒼白になっている。
 毎週金曜日、最後の掃除のあとに行われるホームルームの時間。そこでは次の週の連絡事項や行事の話し合いなどが行われる。今日は幸也が六年生になってから初めての金曜日だった。これから一学期の間、クラスの一人ひとりが担当する委員を決めることになっていた。
「それじゃ、今学期のいじめられ委員は、菊池くんにお願いするわね」
 泉先生がさらりと告げた。
 幸也は自分の席に座ったまま、ただ呆然と成り行きを眺めていた。もうこの流れは止められない。そうわかってはいても、口にせずにはいられなかった。
「どうして、僕なんですか?」
 幸也の声に、教室中が静まり返った。何だよ、と先ほどまでと打って変わって白けた様子のクラスメイトの顔。だがそれはこっちの台詞だ。彼らだって自分が同じ立場に立たされたら文句の一つも言いたくなるだろうに。
「嫌なの? 菊池くん」
 泉先生は、眼鏡を掛けた目を細めながら僕に尋ねた。だが、心配している様子はあまりない。単なる確認に過ぎないのだろう。十年近く教師をやっている泉先生なら、こんな場面は何度も見てきたはずだ。いじめられ委員に選ばれた子が、不満の声を上げる場面を。
「だって、僕。何も悪いことしてないし……」
 幸也は目に涙を浮かべながら訴えた。
 泉先生が困った様子で顎先に手を添えた。そうして子どもっぽい仕草をすると、三十を過ぎているはずの泉先生が、まるで大学を出たばかりの新米教師のように見える。どうして泉先生はまだ独身なのか。幸也たち六年二組の間では、その話題が何度も上がっていた。先日、体育の袴田が告白して振られたそうだ。きっと泉先生には学校の外に本命の彼氏がいるのだともっぱらの噂になっている。
「菊池。いい加減に諦めろよ」
 そう口を挟んできたのは、山下進だった。
「お前、俺のときは止めなかったくせに、自分の番になったら嫌がるのかよ」
 山下と幸也は去年同じクラスだった。山下は背が一五〇センチしかないのに、体重は八〇キロもあるという肥満児で、デブ、ブタと陰口を叩かれる嫌われ者だった。去年の後期のいじめられ委員だった彼の顔には、薄くなってはいるが、今でも左目の下に蒼黒い痣が残っている。三角巾で肩から吊られた右腕は、骨がまだ繋がっていないらしかった。表向きは、というより対外的には階段から転んだという話だったが、それがクラスメイトからのいじめによるものだというのは教室の誰もが知っている。自分がいじめられ委員になれば、あんな目に遭うのだ。そんなの、絶対に耐えられない。
「安心しろよ。俺はもっと優しくいじめてやるからさ」
 山下はそう言って昏い笑みを浮かべた。彼がこの日をどんなに待ち望んでいたのか、その笑顔からもわかる。
「菊池くん、あなたもわかってるでしょ? これはもう決まったことだから仕方ないの」
 泉先生が聞き分けの悪い子に言い聞かせるように言う。
 何がわかっているというのだろう。幸也にはまるで理解できなかった。委員は立候補者がいればその人に、複数人立候補がいれば、クラス全員の投票によって決められる。いじめられ委員の場合は立候補者が誰もいなかったため、当然、無記名による投票が行われた。そして最多数の票を得たのが、幸也だった。ちなみに次点は山下だったらしい。なぜ山下よりも幸也に票が多く入ったのかは、おそらく前に同じクラスだった連中が、山下をいじめるのに飽きたからだと思われた。幸也は別にクラスメイトから嫌われているわけではない。ただ、短所はいくつかある。まず身長が低いこと、小学六年になってもまだ一三〇センチしかなく、整列するときはいつも先頭に立たされる。さらに、運動も苦手で、ドッチボールをすれば集中的に狙われた。成績も良くはなく中の下といったところ。授業中はノートの端に落書きを書いている。つまり幸也は、悪い意味でほんの少し目立つ子どもだった。
「じゃあ菊池くんはこのプリントを持って帰り、お家の人にちゃんと見せるように」
 幸也は泉先生からプリントを手渡された。タイトルに、『いじめられ委員の案内』と書かれている。その内容はというと、いじめられ委員に決まったことを告げる両親への挨拶から、いじめられ委員の役割、注意事項などでびっしりと埋まっていた。
 放課後を知らせるチャイムの音がスピーカから流れた。
「じゃあホームルームはおしまい。休みの間は遊ぶのもいいけど、ちゃんと宿題もやること。いいわね」
 泉先生がいそいそと教室を出て行った。
 幸也も帰り支度を始めた。机の中のものをランドセルに詰め込んでいく。気持ちが重く沈んでいた。これから帰って、両親にいじめられ委員のプリントを見せなければならないのだ。これを見たら父や母は何て言うだろう。
「おい、菊池」
 突然、上から声がして、幸也は机から顔を上げた。
 山下だった。太った丸顔に、ニヤニヤと笑みを浮かべている。ランドセルを背負っていたが、肩紐が肉に少し喰い込んでいる。
「早速だが、お仕事だぜ」
 山下が幸也の胸倉を掴み、無理やり立ち上がらせた。
「何すんだよっ」
 幸也は思わず山下の手を払いのけようとした。だが体格差が大きく、力も圧倒的に山下のほうが強いため、引き剥がすことはできなかった。
「何抵抗してんだバカ。プリントにも書いてあるだろ。いじめられ委員は反抗的な態度を取るなって」
「そんなこと……知ってる」
 六年生になるまでの五年間、いじめられ委員になった子を何度も見てきた。ルールについてはよくわかっている。
「ならさっさと来い」
 山下が胸を掴んだまま、幸也を教室の扉前まで引きずっていった。
「よし、じゃあまずは帰りの挨拶だな」
 教室の中にはまだ大勢の生徒が残っていた。というよりも、幸也と山下のやり取りを見物していたのかもしれない。
「みんな、これから帰るときは幸也に挨拶してってくれよな。こんな風に」
 最後の言葉とともに、山下は幸也の頬を思いっきりひっぱたいた。幸也はいきなりの衝撃に、思わず尻もちをついた。目を白黒させながら呆然と山下を見る。
「はっはっ、痛いか? みんなもこんな感じで頼むぜ。それじゃあ菊池、また来週から頼むな」
 山下は気分良さそうに教室を出て行った。
 幸也は何事もなかったように起き上がった。恥ずかしい気持ちを押し隠して。そして扉から離れる。離れようとした。が、途中で肩を掴まれた。
「待てよ。俺たちはこれから部活なんだぜ。その前にストレス発散させてくれよ」
 肩を掴んだのはサッカー部の熊田だった。
 その背後にたくさんの顔が見える。薄笑いを浮かべた、クラスメイトたちの、顔が。

 いつもの食事の時間。母に呼ばれてリビングに行くと、父がすでに食卓に着いていた。
「その顔はどうしたんだ、幸也」
 訊かれるのはわかっていた。むしろ訊かないほうがおかしい。幸也の顔は左頬ばかりがパンパンに膨れ上がっていたからだ。まるで片方の頬だけがおたふく風邪になったような有様だった。母も心配そうに幸也を見つめている。
 幸也は黙って、ポケットから取り出したプリントを父に渡した。
 そのときの父の顔は面白かった。きっと自分もいじめられ委員に決まったときはこんな顔をしてたんだろう。そう思えるほど、父の顔は青ざめていたのだ。
「幸也、お前……」
 父が独り言のように呟く。
 隣に座る母が、父の手元を覗き込んだ。そして、絶句した。
「そんな……」
「……いつか回ってくることだ。仕方ないさ」
 父が幸也に向き直った。
「幸也。一年前のことを覚えてるか?」
 何の話かすぐにわかった。
 幸也の父は、大手商社に勤める会社員だった。今は企業でも、ある規模以上の会社になると、いじめ制度は導入されている。 
「お前も知ってると思うが、私はあの頃、会社のいじめられ役に選ばれた。そりゃあひどいもんだった。何度会社に行くのをやめようと思ったかわからない」
 父はそう言うと深い息を吐いた。辛い記憶を思い出したのに違いなかった。
 幸也もその頃の事はよく覚えている。父は毎日のように顔に痣を作って帰ってきた。パンツ一枚の姿でタクシーに乗って帰宅したこともある。その夜、父は一人で酒を飲んでいた。涙を流しながら。
「でもな、お前と母さんのことを思いながら父さんは、頑張ったんだ。もしお前たちがいなかったらきっと耐えられなかった」
 幸也の父は二年前まで係長だったが、一年間のいじめられ役を勤め上げ、去年、課長に昇進した。企業によっては、管理職の昇進試験としても利用されている。くじけずに一年間のいじめられ役を耐え抜いた父を、幸也は尊敬していた。
「来週、父さんと一緒に担任の先生に相談へ行こう。この制度自体はどうしようもないが、先生が目を光らせてくれればそこまで酷いいじめにはならないだろう。いいか、幸也」
 父の目が真っ直ぐに幸也を射抜いた。
「うん……ありがとう、父さん」
 父が力になってくれる。そのことがただ嬉しかった。
 でも、泉先生が助けてくれるだろうか。幸也はそれが心配だった。

「どうぞお掛けください」
 泉先生に応接室のソファーを勧められ、父と母が腰掛ける。幸也は二人の間に座った。
 幸也がいじめられ委員に選ばれた翌週の放課後、仕事を早々に切り上げ、父は母とともに幸也の小学校にやってきた。担任の泉先生には事前に連絡してあったので、すぐに応接室に通された。ただ話し合いには泉先生だけでなく、教頭先生も同席するということだった。女性教師一人で生徒の親を相手にするのは荷が重いと思ったのかもしれない。幸也の両親もそのことに異存はなかった。
 泉先生と教頭先生が向かいのソファーに座り、幸也たちと向き合うかたちになる。
「それで、どうして幸也がいじめられ委員に選ばれたんですか?」
 父が話を切り出した。
「それは……クラス内の投票によってです。ご存じのとおり、いじめ制度の実施は教育法で決まっていますし、いじめられ委員の選定も生徒側に一任しています」
 泉先生が真面目な顔でそう説明する。
「それならいいんです。……いえね、私は決して幸也をいじめられ委員から外せと言っているわけではないんですよ。私が学生の頃にはいじめ制度がなく、学校教育の崩壊が起こっていましたからね。教頭先生が一般教員をしておられた時代はさぞかし生徒の教育に苦労されたことでしょう」
 教頭先生がいかにもというように首肯した。
「ええ。あの頃は、それはもう、酷いものでしたよ。全国には一五〇〇万人の児童がおりまして、そのうちいじめによる自殺者は年間一〇〇〇人以上。当時は生徒に自殺者が出るたび、『学校側はいじめの事実を知らなかったのか』などとよくマスコミに責められたもんです。ですが、受け持ちの生徒が何十人もいるなか、いじめられている一人の生徒を見逃さないなんて、所詮無理な話です。いじめの手法もかなり手が込んできてましたし。といって、何もしないわけにはいかなかった。景気低迷による社会不安はそのまま将来不安となって、子どもたちのストレスを増幅させていた。ただでさえゆとり教育がもたらした学力低下は深刻でしたからね。あのまま高齢化だけが進んでいたら、この国は間違いなく暗黒時代に突入していたでしょうな」
 ふう、と一息ついて、教頭先生は続けた。
「……いじめ制度が施行されてから、もう十年になりますかな。いじめられ役を一人クラスに置き、管理された『安全な』いじめを奨励することで、子どもたちの対人ストレスを軽減させ、彼らが勉学に集中できる環境をつくる。いじめ制度が導入されて以来、全国の学力平均はみるみる上昇しております。今ではいじめによる自殺もほとんどありません。委員に選ばれたお子さんには申し訳ないですが、これも生徒全体のためとご理解いただくほかありませんな」
 教頭はこれまで何度も同じ話を委員の親に話してきたのだろう。説明には一分の淀みもなかった。
「ええ、それはよくわかっています。ですが、私も親として息子がいじめられるのを黙って見ているわけにはいきません。今日は先生方に息子へのいじめが度を過ぎないよう、お願いに参った次第です」
 父が深く頭を下げる。
「ご心配されるのはよくわかります」
 泉先生が神妙な顔で頷いた。
「ですが、いじめられ委員になるというのはなにもマイナスの面ばかりではございません。それまで気の弱かった生徒が、任期を終えてから物怖じせずに話せるようになったというケースもございます。いじめに耐えることで強い精神が養われるのです。幸也くんには、ぜひ今回のことは試練と思って乗り越えてほしいものです。わたくしたちも充分に気を付けますので」
 ね、と泉先生が幸也に目を向ける。
 今日も幸也はクラスメイトからのいじめを受けていた。歩いていて、足を引っかけられたことや、いきなり頭を叩かれたり、掃除を押し付けられもした。帰り際には先週と同じように、全員から〈挨拶〉を受けた。頬は腫れあがり、今も目に涙が滲んでいる。
「はい……頑張ってみます」
 幸也はそう答えた。頬の痛みで話しづらい。
 話し合いはそれで終わりだった。両親とともに幸也はソファーから立ち上がった。
「今日はありがとうございました。これからも幸也のことをよろしくお願いいたします」
 父が先生たちに頭を下げ、握手を交わす。そのとき、父の手から教頭先生の手に何かが移った。一瞬だったが、幸也の目には、それがお札だったように見えた。
 幸也が家に帰ってから、そのことについて父に尋ねてみると、「お前はまだ知らなくていい」と言われた。だが、それだけならまだよかった。次の父の言葉がなければ。
「お前の担任の先生、なかなかいい女じゃないか」
 父が突然、何かいやらしい生き物になった気がした。

     二

 五月に入り、幸也に対するいじめはどんどんエスカレートしていった。
 朝、登校すると、ロッカーにある自分の上履きに画鋲が入っていた。はじめて入っていたときは、知らずに履いてしまい、一日中まともに歩けなかった。だから今では、上履きを履く前には必ず、ひっくり返して確認するようになった。
 いじめは、授業中も公然と行われた。丸めたノートの切れ端を投げつけてきたり、シャープペンの芯を爪の先で飛ばしてくる者もいた。一度、黒板を見ているときに、弾かれた芯が目に当たったことがあった。それ以来、ずっと机に目を伏せるようになった。顔を上げるのは黒板を見るほんの一瞬だけだ。
 授業中、幸也をいじめている生徒を泉先生が注意することはない。また、ちょっかいをかける側も、先生がいるときはそこまであからさまな行為には及ばなかった。
 いじめが酷くなるのは、休み時間だった。
 休憩中は先生もいないため、より公然といじめが行われる。その中心となるのは六年生で一番権力を持っている不良グループだった。リーダーは特に体の大きな中野という一組の生徒だ。彼は昼休みになると体育館裏に、幸也たちいじめられ委員を集めた。前期のいじめられ委員は男子ばかりだった。たまに女子もいじめられ委員に選ばれるが、今期はいないらしい。
「とりあえずお前はパンを買ってこい」
 いじめグループの一人が、四組の渡辺に言った。彼は足が速く、スポーツマンで、女子からも人気者がある。おそらくそれを妬んだ男性票によって、いじめられ委員に選ばれたのだと思われた。
 渡辺は嬉しそうに学校外にあるコンビニに向かって走っていった。昼休みに学校の外に出るのは禁止されているが、先生に見つかっても怒られるだけで済む。それに、今から行われることに比べれば、パンを買いにコンビニに走らされる方がよっぽどマシだ。
 中野はポケットから取り出した煙草に慣れた手付きで火を点けた。
「そんじゃ、今日はどうすっか」
 中野がつまらなそうに言う。
 昨日は昼休み中、体育館の壁で、ずっと空気椅子をやらされた。その膝の上に、いじめグループの連中は容赦なく乗り、何事もないように談笑していた。力尽きて椅子を保てなくなると、罰として拳が飛んできた。体力のない幸也は三度も殴られ、昼休みが終わったときには一人で歩けないような状態になっていた。
 中野が幸也たちをコンクリートの床に正座させた。残った三人のいじめられ委員を眺める。幸也はじっと目を伏せて、視線を合わせないようにしていた。が、それがいけなかった。
「お前、何顔隠してんだよ」
 そんな言い掛かりを付けられ、中野にいきなり腹を蹴られた。大人と子どもほども身長差のある相手からの蹴りは、体がばらばらになりそうな衝撃だった。肺から空気が抜け、ごほごほと咳き込みながら床の上でのたうつ。
 そんな幸也を見て何か思いついたらしく中野が口にする。
「よし、今日はお前らにタイマンをやってもらおうじゃねえか」
 名案だと言うように、旨そうに煙草をふかす。幸也は痛みに腹を押さえながらその姿を見上げていた。
「勝ったやつから帰っていいぜ」
 その言葉に他の二人の委員が、嬉しそうな顔になる。
 僕が、勝ち残れるわけないじゃないか。
 幸也は絶望的な思いだった。他の二人の委員はそれほど背は高くないが、標準的な体格でも幸也に比べればずっと大きい。力づくの喧嘩で勝てるわけがなかった。だがそれを口にしても殴られるだけだ。どの世界でも一番弱い者が集中攻撃の対象になる。それが世の常だと、幸也は達観したような思いですでに受け入れつつあった。
「始めろ」
 幸也はグループのメンバーに無理やり立たされた。委員の一人が自分から立ちあがって幸也と向き合う。こいつなら勝てると踏んだのだろう。
「くっそおお」
 幸也は真っ直ぐ相手に向かっていった。腹の痛みは怒りでほとんど消えていた。頭一つ分背の違う相手だ。それでも喧嘩には慣れていないらしく、顔に動揺の色を浮かべている。
 あ。
 自分の拳が相手の顔に当たった瞬間、幸也の頭はさっと冷めた。自分のしたことが信じられず、動きを止め、相手の反応をついうかがってしまった。
「この野郎」
 すぐさま相手の拳が飛んできた。闘争本能に火を点けてしまったらしい。
 そこからは一方的な防戦だった。いやぼこぼこにされたと言っていい。腕を顔の前に上げ、亀のように縮こまっていただけだ。顔をまともに殴られることはなかったが、全身に何発も打撃を受け、立っているのがやっとだった。
「……もういい」
 呆れたように中野が言った。
 相手が幸也を殴る手を止めた。はあはあと大きく息をつきながら汗だくの顔にやりきれなさを滲ませていた。
「さっさと帰れ、次だ」
 中野の言葉に、残った一人が立ち上がった。さっきのやつよりも弱そうな相手だった。が、幸也はもう相手を殴る気を失っていた。すべてがバカバカしく思えて、何をする気も起らなかった。
「うるらあ」
 奇妙な声を上げながら相手が向かってきたときも、早く終わればいいな、と思っただけだった。
 気がつくと、幸也は地面に倒れていた。
「おい、生きてるか?」
 中野が幸也を見下ろしていた。体中が痛く、とても動けそうになかった。中野に答える気力もない。
「あの、中野くん……」
「あ?」
 幸也を倒した委員の少年が、中野に呼び掛けた。
「もう……帰ってもいいかな?」
 妙にへりくだった、情けない声。
「とっとと行けよ」
「あ、うん」
 許可を得たそいつは、この場から逃げ出るように走り去っていった。
 何やってんだろ。悔しさが幸也の胸に満ちた。自分を倒した相手は、他人の顔色をうかがっているだけの臆病者で、自分がそれ以下の存在だと思うと、無性に悔しかった。そんな幸也の想いとは裏腹に澄んだ空が目に入る。だがすぐに雲と空の色が混ざり合った。涙で視界が曇っていた。鼻水を啜りあげる。
 誰かの駆けて来る足音がした。
「遅くなってすいません。パン買ってきました」
 渡辺が買い物から戻ってきたらしい。
「遅せえよバカ」
 グループの一人が悪態をつく。
「何か……あったんですか?」
 倒れている幸也に気づいたらしく、渡辺が尋ねた。
「そういや次はお前の――」
 ――番だな。そう言おうとしたのだろう。だが突然、別の声が言葉を遮った。
「何やってるの!」  
 女の子の声だった。幸也は倒れたまま動けなかったが、うるさいなと思った。静かに寝かせてくれ。もう何もかもどうでもいいんだ。
「はあ? 見りゃわかるだろ。いじめられ委員に仕事をやってんだよ」
 中野がこの場にやってきた誰かに答えた。
「いくらいじめられ委員だってやりすぎよ。菊池くん怪我してるじゃない」
 突然、自分の名前が呼ばれ、幸也は驚いた。声に聞き覚えはあるが誰の声なのかわからない。でも、どうやらその声は幸也の味方をしてくれているようだ。
「シラけちまったな。今日はこれぐらいにしといてやるよ」
 おそらく幸也に向かって言ったのだろう。それからすぐ、彼らの引き上げていく足音がした。
「菊池くん、大丈夫?」
 すぐそばで声がした。
 涙で滲んだ視界に、誰かの顔があった。幸也は手で涙を拭った。自分を助けてくれた女の子の顔がはっきりと映った。ああ、見覚えがある。たしか、クラスメイトの河村さんだ。彼女は心配そうに幸也を覗きこんでいた。こんな間近で女の子に顔を見られるのは初めてだった。
 彼女は意志の強そうな眉と、大きな澄んだ瞳をしていた。長い髪を後ろで結っていて、透き通るような白い肌に、頬だけがほんのりと赤く染まっている。間近で嗅ぐ女の子の匂いは、シャンプーよりもずっといい匂いがした。
 幸也は急に恥ずかしくなった。こんな情けない姿を見られたという羞恥心で、この場から逃げ出したい気分だった。
「立てる?」
 幸也は彼女から目を逸らして、ゆっくりと体を起こした。
「痛っ……!」
 全身に鋭い痛みが走る。きっと顔もひどく腫れていることだろう。
「渡辺くん手伝って」
 この場にいるのは彼女と二人だけかと思っていたら、渡辺もまだ残っていたらしい。
「あ、ああ」
 幸也は二人に両側から支えられ、どうにか立ち上がった。
「保健室に行こう。歩ける?」
 彼女が幸也に尋ねる。幸也はしっかりと頷いたが、実際のところ一人ではとても歩けそうになかった。それがわかったのか、彼女は幸也を支えたまま少しずつ歩きだした。
「……ありがとう」
 幸也は礼を言った。
 だが、すぐ隣にある彼女の顔を、幸也はもう見れなかった。

     三

 幸也は自分が恋をしていることを知った。
 授業を受けているときも、ついつい河村茜のことを意識してしまう。下の名前は学生名簿で調べた。彼女の席は、教室の中央、後ろから二番目の幸也の席と、教壇のちょうど中間にある。黒板に目を向ける一瞬の間に、彼女の後姿を眺めるのが、幸也の楽しみになっていた。
 あれ以来、昼休みに中野たちに呼ばれることはなくなった。たぶん幸也たちをいじめるのに中野が飽きたのだろう。しかし、帰り際に行われるクラスメイトたちの幸也への〈挨拶〉は続いていた。それをするのはクラスの半数ほどで、他ののクラスメイトは目を伏せながら、幸也の前を通ってそそくさと帰って行く。
 だが彼女は違っていた。
 彼女は目を伏せることをしない。まっすぐ幸也の目を見て、「また明日」と言ってくれる。幸也をいじめから助けたあの日から、彼女の中でも何かが変わったのかもしれない。それまで彼女は他のクラスメイトと同じで、申し訳なさそうな様子で帰宅していたはずだ。しかし、今は他人の目を気にする様子もなく、幸也に〈普通の挨拶〉をして帰っていく。しだいに幸也は、彼女が声を掛けてくれるその時間を楽しみにするようになっていた。
 家に帰ってからも、茜のことばかりが頭に浮かんでくる。彼女のことを考えると、不思議と股間がむずむずした。ある夜、どうにもむずむずが収まらなくて、ベッドのシーツに股間をくっつけて擦ってみた。股間のモノが熱くなって痛いぐらいだったが、同時にすごい快感が込み上げてきた。そのままもっと気持ちよくなりたくて、何度も擦り上げた。それが十回を越えた頃、なぜか幸也はおしっこがしたくなった。もう少し気持ちよくなったらトイレに行こう。そう思いながら幸也は行為を続けた。すると突然、股間が爆発したような凄まじい快感が波のように押し寄せてきた。頭の中が真っ白になり、全身を痙攣させながら、力尽きたようにベッドに倒れ込む。しばらく放心状態が続いた。頭の中の茜はなぜか全裸になっていた。雪のように白い肌を露わにしながら、天使のように微笑んでいた。
「茜ちゃん……」
 幸也が我に返ったのはたっぷり十分ほど経ってからだった。股間に濡れた感触があり、幸也はパンツの中を覗きこんだ。白い液体がべっとりとパンツを汚していた。何だこれは。幸也は驚いた。てっきり放尿したものだと思っていたのに。でもおしっことはあきらかに違う。触ってみるとネバネバしていて、匂いは少し生臭い。もしかするとこれが精液なのだろうか。保健体育の時間に聞いたような気がする。好きな女の子のことを考えたりすると、ペニスから白い液体が出てくることがあるのだと。これがそれだとしたら、自分も大人になったということか。幸也は嬉しさと同時にどこか虚しさを感じた。パンツを洗わないと。幸也はベッドからそっと足を踏み出した。

「お前、河村のことが好きなんだろ」
 六月に入ったある日のことだった。放課後、いつものように幸也の机へとやってきた山下がいきなり耳もとでそう囁いた。
「えっ」
 あまりに突然のことで、何を言われたのかすぐに理解できなかった。でも、その言葉が頭に浸透してくるにつれ、顔に血が昇ってくるのがわかった。
「やっぱりな」
 脂肪を歪ませて、山下は嫌な笑みを浮かべた。
「おーい、みんな。菊池のやつ、河村のことが好きらしいぞ」
 山下が大声を張り上げた。最初に耳元で口にしたのは、幸也に内緒話だという印象を与えるためだったのだろう。山下はそういうことにかけては、頭の回転が速かった。
「ほんとかよ」
「へー、あいつが」
 クラスメイトたちが口々に言った。
 幸也は消え入りたい思いだった。そして何より、それを聞いた茜の反応が怖かった。
 そっと茜に目を向けると、彼女は幸也のほうを見ながら青ざめた顔をしていた。やっぱりいじめられ委員の僕なんかが彼女を好きになっちゃいけなかったんだ。
 しかし彼女はきっと顔を上げると、幸也たちの前にやってきた。
「あんたいい加減にしなさいよ!」
 茜はいきなり山下に向かってタンカを切った。
「な、何だよ。俺はただこいつと遊んでやってるだけじゃないか」
 山下が幸也の肩に腕を回してきた。幸也はまったく抵抗しなかった。いじめられ委員の本分を全うしたわけではなく、茜がどう思っているのかが気になって、他のことは何も考える余裕がなかったのだ。
「そんなわけないでしょ! どう見たって嫌がってるじゃない!」
 茜が味方をしてくれるのは嬉しかった。でも彼女の様子は普段と何も変わっていない。自分のことなど何とも思っていない。自分は相手にもされていない。そう思えて、幸也は悲しくなった。
「そんなことないよな。な、菊池」
 山下の腕に力が入る。首を強く締め付けられて、苦しかった。そしてそれ以上に、山下の脇の臭いがして気持ちが悪かった。幸也は助けを求めてコクコクと頷いた。
「ほら、菊池もこう言ってるだろ。そんなことより、お前はどうなんだよ。菊池のこと好きなんじゃないのか。だからそんなに口を出してくるんだろ」 
「っ……!」
 山下の言葉に茜が絶句する。まさかそんな反撃が来るなんて予想もしていなかったのだろう。
「そうなんだろ、なあ。せっかく両想いなんだからさ。キスでもしてやったらどうだ。菊池だって喜ぶぜ」
 茜は今やただのか弱い女の子になっていた。男勝りの気の強さも、無理やり奮い立たせた虚勢だったのかもしれない。幸也は自分が今、彼女を苦しめている原因になっていることがひどく心苦しかった。でも、やめろと言うこともできない。いじめられ委員にそんなことは許されていないのだ。
「キスしてやれよ。ほら、キッス。キッス」
 周囲を見ると、他のクラスメイトたちはこのやり取りをおもしろそうに眺めていた。茜は明るく可愛いためクラスの人気者だったが、そのおかげで女子の一部からは嫌われている節があった。公然の場で辱められる茜に対し、男女ともに嗜虐心を煽られたのかもしれない。もはや山下のことを誰も止めそうになかった。
「……うっ……うっ……」
 幸也は呆然と、茜を見つめた。彼女は伏せた顔を両手で覆い、嗚咽を漏らしている。その指の隙間から、水滴が一つ、二つと零れ落ちた。泣いているのだ。
「お、おい」
 山下がうろたえた声をあげる。さすがに女の子を泣かして平静ではいられないらしい。そして、茜が泣きだしたことで、見物していたクラスメイトたちも完全に茜の味方に回ったようだ。再び、形勢が逆転した。幸也は女の子の涙にこれほどの力があることを初めて知った。
「うああああん」
 茜は泣きながら教室を飛び出して行った。
「何だよ。あれぐらいで泣くなんてバカなやつだな。ちょっとからかっただけだってのに」
 山下が苦し紛れの悪態をつく。
「……いい加減にしろ」
 さすがに、幸也の我慢も限界だった。
「茜ちゃんを、泣かしやがって」
 幸也は山下の腕を振りほどいた。山下は周囲に気を取られ、幸也を締める力を完全に弱めていた。
「何だよ。お前はこれから〈挨拶〉の仕事があるだろ」
 山下は完全に幸也を舐め切っていた。こんなチビが反抗するなんて夢にも思っていないのだろう。
「茜ちゃんに謝れ!」
 幸也は本気で怒鳴った。こんなに怒りを覚えたのは初めての経験だった。中野に玩具にされているときも、これほどの怒りを感じたことはない。
「ふざけんな。大体、なんだ茜ちゃん、茜ちゃんって。お前そんなに河村と親しかったのかよ。残念だったな、河村にキスしてもらえなくて」
 頭の中で何かが弾けた。
「あああああっ」
 幸也は思いっきり振り上げた拳を山下の鼻面に叩き込んだ。幸也にそんな度胸があるなんて思ってもいなかったのだろう。山下はまともに拳を受けた。めり込んだ拳が鼻の骨を砕く感触がした。
「ぐう、ふはっ」
 山下は鼻を押さえながら、荒い呼吸を何度も繰り返した。押さえた手から、赤黒い血が溢れ落ちてくる。先ほどの茜の涙とはまるで違う、汚い血だった。
「謝れ」
 幸也はもはや戦う気を失った山下を何度も殴りつけた。
「謝れ。謝れ。謝れ。謝れ。謝れ」
 山下が倒れ込んだあともその太った腹の上に跨り、顔面に拳を叩き込み続ける。醜い山下の顔が、波打ち、歪み、腫れていくのを目の当たりにした。それでも、罪悪感は少しも湧き上がってこなかった。
「やめ……ひゃめて……」
 山下は救いを求めるだけの哀れなサンドバッグのようだった。拳を叩きつける。このクソが。死ね。死ね。死ね。
 幸也は血に酔っていた。

 結局、呼ばれた先生に取り押さえられるまで、幸也の暴行は続いた。普段大人しい幸也が人を殴り、先生に連れて行かれるのをクラスメイトたちは怯えた視線で見送った。太った山下は先生が二人掛かりで保健室に運んで行った。あとであらためて救急車を呼ぶことになるだろう。
 幸也の連れて行かれたのは生徒指導室だった。しばらく椅子に座らされているとだんだんと興奮が鎮まってきた。と同時に、後悔の念が幸也の心を責め立てた。
 やってしまった。
 これ以上ないほどの失敗だった。いじめられ委員についてのルールはよくわかっていたはずなのに。でも、茜を泣かせた山下のことはどうしても許せなかった。それに関して後悔はしていない。ただ、もう少しやりようはあったはずだ。
 五分ほどして、担任の泉先生が生徒指導室に入ってきた。それまで部屋には別の先生がいたが、泉先生と入れ替わりで外に出て行った。体の小さい幸也となら二人っきりにしても問題はないと判断したのだろう。
「どうしてあんなことしたの!」
 泉先生は部屋に入ってくるなり幸也を問い詰めた。
「あなたいじめられ委員でしょ! あんなことをしてどうなるかわかってるの!」
 パイプ椅子に座る幸也の両肩に泉先生が手を置いた。目の前に、眉を大きく眉間に寄せた泉先生の顔がある。目に涙が浮かんでいるのが見えた。
 幸也は何も言えなかった。
 泉先生が怒るのも当然だ。いじめられ委員が、他の生徒をいじめることは禁じられている。そんなことを許せば、この制度自体が成立しない。だからこそ、いじめられ委員が他の生徒に手を出した場合、大きなペナルティが課せられることになっていた。
「あなたこのままだと〈脱落者〉の烙印を押されることになるのよ。高校にも行けなくなるし、就職だってできない。拾ってくれるのは烙印なんて気にしない肉体労働だけ。酷い環境でボロボロになるまで使われて、誰とも結婚できないまま孤独に人生を終えることになるんだから」
 脱落制度はいじめ制度ができる数年前に作られた。社会に適応できないと判断された人間の額に〈脱落者〉という一生消えることのない烙印が押される。おかげで一般人は、社会の枠から外れた異常者を一目で識別することができるようになった。一度烙印が押されてしまうと、もはやまともな人生は送れなくなる。脱落制度が施行されてから、犯罪者予備軍はペナルティを恐れ、犯罪率は大幅に減少していた。
 幸也の体は自然と震え出していた。自分の額に烙印が押されるなんてとても耐えられない。その痛みよりも、押されたあとのほうが怖い。
 学校に通う途中の公園に、烙印を押された人間が住んでいる。脱落制度が生まれる前もホームレスはいたのだが、脱落者はそれよりももっと酷い扱いを受けている。通勤途中のサラリーマンにストレス解消のためバットで殴られることなんて日常茶飯事だ。小学生が集団でエアガンの的にしていることもある。つまり脱落者は、社会における共通のいじめられ役となっているのだ。
「……先生、お願いです。助けてください」
 幸也は泉先生に縋りついた。
「僕が馬鹿でした。反省してます。だから……」
 恐怖心で押しつぶされそうだった。山下を殴ったことに対する後悔の念がようやく湧いてきた。
 泉先生は幸也を抱き締めた。
「……今ならまだ、助けられるかもしれない」
 幸也の耳元で泉先生がそっと囁いた。
「本当ですか?」
「ええ」
 泉先生の吐息が幸也の首筋を撫でる。
「あなた、秘密は守れる?」
 急に声色が変わった。どこか艶っぽい響きが混じっている。
「どういう、ことですか?」
 幸也は不安げに尋ねた。
「私ね。前から菊池くんのこと可愛いと思ってたのよ」
 背に回った泉先生の腕が、幸也を強く抱き締める。胸の柔らかな感触が伝わってきた。
「え、あの」
 激しい動揺が幸也を襲った。泉先生が何を望んでいるのか、はっきりとわからなかったが、いけないことだということは本能的に気付いていた。
「今ならあなたが――いじめられ委員が他の生徒を傷付けたことを校内だけの秘密にできる。山下くんは階段から落ちたということにすればいい。私もね、この学校に長くいるから、それぐらいのことはできるの」
 泉先生が潤んだ目で幸也を見る。
「ね。だから――」
 誰か来てほしい、と幸也は思ったが、よく考えると部屋の鍵は泉先生が来たときに閉められている。生徒のプライバシーを気づかってのことだと思っていたが、そうではなく、泉先生は最初からこの展開を想定していたのかもしれない。
 もう逃げられない。それに、逃げても脱落者になるだけだ。
「……わかり、ました」
 幸也に、選択の余地はなかった。

 家に帰ってから幸也はずっと自室のベッドに倒れ込んでいた。テレビのスイッチも入れずに。日が落ちて暗くなっていく部屋の中。明かりを点ける気力も湧いてこなかった。
 今日の記憶を消してほしかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、それでも生徒指導室での出来事は、はっきりと脳裏に焼き付いている。
 泉先生の裸。肉付きのいい腰回り。張りのある乳房。丸く突き出たお尻。吸われた唇の生々しさ。無理やり揉まされた胸の感触から、全身を這う舌の気持ち悪さ。舐めるよう強要された股間の味と腐った桃のような臭い。跨って打ち付けられる腰の音と犬のような喘ぎ声。
 すべて消してほしい。気持ちいいと感じてしまったことすら、忌々しい記憶。消えてなくなれ、と考えるたび、鮮明に思い出す。別れ際、山下くんのことは心配しなくていいと言われた。だが引き換えに自分の大切な何かを捨てたような気がした。泉先生の艶めかしい表情にさえ吐き気がする。
 記憶を消すにはどうしたらいいだろう。そう考えたとき、父のことが頭に浮かんだ。幸也の父はいじめられ役になったとき、よく家で一人飲んでいた。辛いことを酒で忘れようとしていたのだ。
 酒を飲んだら忘れられるだろうか。たとえ忘れられなくても、今より悪くなることはないはずだ、と幸也は思った。
 父の酒は台所に置かれている。最近の父は酒を飲まなくなったから、少しぐらい減ったって気づくはずもない。幸也は台所に向かった。今日は母が出掛けていたから、誰にも気兼ねする必要はなかった。夕飯はレンジで温めるようにとテーブルの上に書き置きが置いてあった。最近はいつもこれだ。
 酒を持って幸也は自分の部屋に戻ってきた。酒瓶のラベルを見る。英語で書かれているため読めなかったが、洋酒なのはわかった。茶色い液体がほとんど瓶の淵いっぱいまで入っている。コップを持って来るのを忘れたので、というよりどうでもよかったので、そのままラッパ飲みをした。頭の中がカーッと熱くなって、ぐちゃぐちゃだった頭がぐっちゃぐっちゃになった。
「この世は腐ってる」
 茜以外は、と幸也は独りごとを呟いた。
 ハハーッと意味もなく笑ってみる。それから泣いた。
「何で僕をいじめるんだよう」
 幸也はこれまで溜め込んでいたものをすべて吐きだすように笑い、怒り、悔し泣きした。
 酒瓶が半分ほど空になったとき、突然、声がした。
「お前、何やってんだ!」
 気がつくと目の前に父が立っていた。スーツ姿のまま、ベッドの上で酒を飲んでいた幸也を見下ろしている。
「酒なんかっ、この馬鹿!」
 いきなり横っ面を張られた。酒瓶が床に落ちる。幸也はベッドに倒れ込んだ。痛みはほとんど感じなかったが、頭の中がぐらぐらと揺れた。気持ちが悪くなって幸也は倒れたまま嘔吐した。吐瀉物が布団を汚した。
「お前は馬鹿だっ。どうしようもないヤツだっ」
 父は幸也を罵倒した。一年前の自分を、いじめられ役になり、毎晩のように一人飲んでいた自分のことは棚に上げ、息子に汚い言葉を吐きかけた。
「今度飲んだら許さんぞ。わかったか」
 最後にそう告げると、父は幸也の部屋を出て行った。
 一人になった幸也はまだベッドの上に倒れたままだった。
「はは、はははっ。あはははははっ」
 おかしかった何もかも。この腐った世の中がくだらないテレビを見ているようで、どうしようもなくおかしかった。
 それでも、しばらくすると意識が現実に戻ってきた。激昂した父の姿が脳裏に蘇ってくる。
 父さんはどうしてあんなに怒ったんだろう。そんな疑問が頭に浮かんだ。
 普段穏やかな父とはまるで別人のようだった。会社で何かあったんだろうか。それに、あんなに声を荒げていたというのに、母さんが様子を見に来ない。もしかして、母さんはまだ帰って来てないのかな。
 まあ、どうでもいいや。

     四

 翌日、幸也が二日酔いの頭で学校に登校すると、クラスメイトの態度が変わっていた。誰もが示し合わせたように、幸也の存在を無視しだしたのだ。山下を病院送りにした幸也のことを皆、怖がっているらしかった。その山下は、当然ながら登校していない。怪我が治るまでしばらくは学校にやって来ないだろう。普段から嫌われていたせいか、クラスメイトたちの話題にも上っていないようだった。
 山下がいなくなり、下校時の習慣になっていた〈挨拶〉も行われなくなった。幸也と目が合うと、誰もが視線を逸らすようになった。茜も例外ではなかったが、申し訳なさそうな様子がその表情から見て取れた。たとえそれが自分のためだとしても、暴力は間違っているという彼女の気持ちが痛いほど伝わってきた。
 自分が悪いんだ。だから今は耐えるしかない。そう思いながら、幸也は毎日登校を続けていた。泉先生は時折、幸也に含みのある視線を送ってきたが、あれ以来、直接呼び出されるようなことはなかった。この前のようなことは、泉先生にとっても度々行えるようなものではないのだろう。幸也はほっと胸を撫で下ろしていた。
 あれから幸也の家では大きな変化が起こっていた。最近、おかしいと思っていたが、母の外出する日が目に見えて増えていたのだ。それに気づいた父が母を問い詰め、一度大きな喧嘩となった。どうやら母が浮気をしているらしかった。喧嘩をした翌日、母は家を出て行った。そして、二度と帰ってこなかった。幸也が父に母のことを尋ねると「知るか」と吐き捨てるように言われ、それきりだ。その夜から父の帰りも遅くなり、だんだん家に寄りつかなくなっていった。
 幸也は誰とも関わることのない孤独な毎日を送っていた。唯一の癒しが学校で茜の姿を見ることだけだった。彼女の存在は以前にも増して、幸也の心の中に大きな存在を占めるようになっていた。茜の歩き方、話し方、笑い方、その一挙一動までも、幸也は目をつむるだけで思い浮かべられた。
 ある日の昼休み。ひさしぶりに中野のグループに呼び出された。幸也が体育館裏に行くと、中野とその取り巻きたちが待ち構えていた。他のいじめられ委員はいないようだった。呼び出されたのは幸也だけらしい。
「よう、ひさしぶりだな」
 中野は以前よりも少しやつれたように見えた。
「あの……今日は何……?」
 幸也は怯えながら尋ねた。
「ちょっとお前に俺のストレス発散を手伝ってもらおうと思ってな」
 取り巻きたちが縮こまる幸也を見ておかしそうに笑う。
「そんな。どうして僕なの?」
 他にもいじめられ委員はいるのに、なんで自分だけ。
「理由なんてねえよ。そうだな、しいて言えばお前を見るとイライラするってことかな」
 中野は鋭い目で幸也を見ながらそう告げた。
「お前ら、こいつを脱がせろ」
 幸也は制服を無理やり剥ぎ取られた。パンツ一枚だけにされる。六月の晴れの気候に寒さは感じなかったが、痩せた体を人目に晒すのはひどく屈辱的なことだった。
「そこに正座してろ。動くんじゃねえぞ」
 中野たちは幸也をコンクリートの上に正座させると、美味そうに煙草をふかし始めた。それからしばらく、中野たちはまるで幸也の存在などないように談笑しだした。喧嘩で何人倒しただとか。酒を飲んで吐いた話だとか。セックス経験についての話もあった。つまらない話だった。幸也はそのどれも経験済みだったからだ。大人しく正座していたが、これからどんなことが行われるかはどうでもよかった。それよりも、茜が助けに来てくれるんじゃないかと期待していた。
「そういえば、灰皿がないっすね」
 煙草が灰になる頃、誰かが口にした。
「何言ってんだ。そこにあるだろ」
 中野が指さした先は、幸也だった。
「そうだった、そうだった」
 少年の一人がニヤついた顔で煙草を手に幸也に歩み寄ってきた。
「手え出せ」
 ようやく幸也にも彼らの意図がわかった。幸也を灰皿に見立てて、火の点いた煙草を押し当てようというのだ。
 幸也は奥歯を噛み締めた。抵抗したかったが、そんなことをすれば再び生徒指導室に呼ばれるだけだ。そうなればまた泉先生に体を弄ばれる。悪くすれば、〈脱落者〉にされてしまうかもしれない。
「…………」
 幸也は黙って左手を差し出した。手が自然と震えだしていた。それが怒りのためなのか、それとも恐怖のせいか、自分でもわからなかった。
「声を出すなよ」
 煙草の先が左手の平に強く押しつけられた。その瞬間は何も感じなかったが、いきなりもの凄い熱が生まれた。続けて手の平に穴が空いたんじゃないかと思えるほどの痛みが襲いかかってくる。
「っあああああああ!」
 幸也は叫んだ。我慢などできる熱さではなかった。手を引いて左手を地面に擦りつける。痛い痛い熱い。
「声を出したな」
 煙草を押し当てた少年がドスの聞いた声で言った。
「……だってっ」
 幸也は涙声になっていた。
「罰ゲームだ」
 中野の言葉とともに、少年が殴りかかってきた。幸也はとっさに腕を上げたが、強烈なフックが腕をかいくぐって幸也の横っ面に飛び込んだ。
「うぐっ」
 幸也は裸のまま地面に横倒しになった。勢いよく倒れ込んだせいで肘を強く擦り剥く。
「ルールはわかったな。お前は灰皿だ。灰皿は声を出さない。出したら罰としてぶん殴る」
 中野の声がした。手が痛い。誰かが幸也の髪を掴んで引き起こした。顔が痛い。手え出せ。別の少年の声。肘が痛い。無理やり手を掴まれる。あづっ、あっぢぢぢぢ、いだだだ。
「だっ」
 あ、声が出た。
 次の瞬間、思いっきり殴られた。

「そろそろ戻るか」
 中野が告げたのは、昼休みのチャイムが鳴る少し前だった。合計十発を越える拳を受けて、幸也の顔は酷く腫れ上がっている。手の平には無数の水膨れができていた。しばらくはペンすら持てそうにない。それでもいじめられ委員は、授業を受けなければならないのだ。他の生徒のために。
「誰か保健室に連れてってやれ。今日は他のいじめられ委員はいないからな」
 意外にも中野が取り巻きたちに言った。
「しょうがねえな」
 そう言って幸也に肩を貸したのは、最初に煙草の火を押し当てた少年だった。もう一人の少年とともに、幸也を引きずるように運んで行く。
「中野さんなんか変わったよな。保健室に連れてってやれなんて」
「お前もそう思うか」
 幸也は薄れそうになる意識でなんとか足を運んでいた。二人の少年の会話が、頭の上を通り過ぎていく。
「やっぱりあいつに振られたせいかな」
「二組の河村だっけ? どうして振られたんだ?」
 その言葉を聞いた瞬間、幸也の意識がはっきりした。中野が、茜に振られただって。
「なんでも河村のやつ好きな男がいるらしくてさ」
 えっ。茜に好きな男が。嘘だ。
「へー。誰よ」
「知らねえけど噂じゃいじめられ委員の誰からしいぜ」
 心臓がドクンと脈打つのを感じた。
 まさか……僕のことじゃ。
「こいつだったりしてな」
 幸也の心を読んだように、少年の一人が言う。
「そりゃねえよ」
 そう言うと、二人はおかしそうに笑った。
 保健室で簡単な治療を受けた。保険の先生は太ったおばさんで、おっとりとした人柄が生徒に人気だった。おばさんは幸也がいじめられ委員なのをわかっていて、残りの授業の間、ここで休んでいくようにと言ってくれた。
 好意に甘え、保健室のベッドで横になる。おばさんがカーテンを引いてくれた。消毒液の匂いはするが、意外と居心地は悪くない。
 目を瞑っても、すぐには眠れなかった。
 茜ちゃんの好きな男、か。
 先ほどの話が幸也の頭からずっと離れなかった。

     五

 彼女が好きなのは僕なんじゃないだろうか。
 幸也は毎日そのことを考えていた。いじめられ委員は同じ学年に幸也を含めて四人いる。その中の一人が茜の好きな男だとあいつらは言っていた。ならば、自分がそうであってもおかしくはない。中野に呼び出されたこと自体、茜の好きな男に対する報復なのかもしれない。そうであってほしい。
 授業中、いつものように幸也は茜の後姿を見ていた。彼女の態度は普段と何も変わらない。でも、後ろにいる幸也のことを気にしているはずだ。幸也がいつも茜のことを意識しているように。
 考えてみれば、これまでの茜の態度にはそう思わせるものがあった。幸也が丸めたノートの切れ端を投げつけられたときや、給食の牛乳を吹きかけられたときなどに、彼女はときおり振り返り、悲しそうな目を向ける。今までそれは単なる弱者への憐れみからだとばかり思っていたが、本当は好意あってのそれかもしれないと幸也は思うようになった。
 もし茜が彼女になってくれたら、と幸也は空想に耽った。二人でデートに行く場面、並んで町を歩く光景、キスをするときの彼女の顔を何度も思い描いた。
 茜に告白しようと幸也が決めたのは七月の初めのことだった。
 彼女と顔を合わせるのは学校にいるときだけ。直接話したことは一度もない。どうやって告白をしようかというのが幸也の次の悩みだった。
 教室でいきなり告白するのは駄目だ。他の生徒に茶化されるどころか確実にいじめも酷くなる。向こうも人前でいじめられ委員から告白されても困るだけだろう。ただ、委員の任期はあと一か月もない。誰もいないところでならきっといい返事をくれるはずだ。
 どうやって呼び出そう。学校の帰り道に声をかけようか。いや、駄目だ。彼女は人気者だから、帰るときも友達と一緒に違いない。人知れず彼女とだけ話をしないと。
 考えた結果、幸也は手紙を出すことにした。文面は『今日の放課後、屋上で待っています』という短いものだった。
 朝、誰よりも早く登校し、震える手で、茜の下駄箱に手紙を入れた。
 その日、幸也は緊張しながらずっと茜の様子をうかがっていた。茜の態度は普段通りに見えた。手紙は読んでいるはずなのに。ひょっとしたら茜にとっては下駄箱に手紙が入っていることなどよくあることなのだろうか。自分の出した手紙なんて、何とも思われていないのかも。
 放課後が来るのを、幸也は待った。期待と不安がない交ぜになった落ち着かない気持ちで。学校では近頃、平和な日々が続いている。あれ以来、昼休みに中野から呼び出されることもなく、山下もまだ登校してきていなかった。噂によると怪我は治っているらしいが、ずっと自宅に引きこもっているらしい。もう卒業まで学校に来ないのかもしれない。それならそれでいいのだけれど。
 放課後を告げるチャイムが鳴った。幸也は真っ先に教室を出た。人に見られないよう、教室から一番遠い階段を使って屋上に向かう。幸也の通う学校は四階建てで、珍しく屋上は生徒に解放されている。しっかりとした防護フェンスが縁を隙間なく取り囲んでいるからだろう。
 休み時間にはたくさんの生徒が訪れる屋上だが、終業チャイムからしばらくすると先生が鍵を掛けてしまうため、放課後はほとんど誰も来ない。鍵を掛けられるまでの数十分が二人きりの時間だ。もちろん彼女が来てくれればだが。
 幸也は屋上の隅まで歩き、防護フェンス越しに町の景色を眺めた。夕暮れ空に住宅街の屋根が紅く染まっている。見下ろすと校門に向かって歩いていく生徒たちの姿が見えた。その中にたくさんのランドセルを背負わされた下級生の姿がある。いじめられ委員だろう。その周りを取り囲むように身軽そうな少年たちが軽快に歩いている。あの子たちのクラスでは、いじめられ委員にああして帰宅時にランドセルを背負わせるのがお決まりらしい。かわいそうに、と幸也は思った。
「菊池くん」
 いきなり、背後から声を掛けられた。
 幸也が振り返ると、屋上の入口に河村茜が立っていた。
「……っ」
 突然のことに、声が出なかった。呑気に景色など眺めていないで、心の準備をしておけばよかった。
「菊池くんが私をここに呼び出したの?」
 茜は無邪気そうな顔で幸也に尋ねた。夕日が顔に当たって、頬がほんのりと紅く染まっている。やっぱり夕暮れどきでよかった、と幸也は思った。きっと自分の顔は真っ赤になっているだろうから。
「……うん」
 幸也は伏せ目がちに頷いた。
「何か用?」
 茜は手を後ろで組んで、おもしろそうに幸也を見つめた。
「あの……僕……」
「うん」
 落ち着け、と幸也は自分に言い聞かせた。
「茜ちゃんが好きなんだ」
 声は小さかったが、はっきりとそう告げる。
「ふーん」
 幸也の予想とは違い、茜の反応はあっさりとしたものだった。
「そういうの、困るんだよね」
 茜がため息をついた。
「え?」
 どういうこと。
 彼女は、僕のことが好きなんじゃ……。
「何を勘違いしたのか知らないけど、あんたいじめられ委員でしょ? それに、チビだし運動もできないし、いいとこなしじゃん。私、もっとかっこいい人が好きなんだよね」
「そ、そうなんだ」
 幸也は平静をよそおっていたが、抉られたような激しい胸の痛みを必死に押し殺していた。
「あ、もしかしてあんた、私が一度、中野たちがいじめてるところを一度助けてあげたから、私を好きになったの?」
 茜が呆れたような顔になる。幸也がこれまで一度も見たことのない彼女の表情だった。
「あのときはあんたじゃなく、渡辺くんを助けに行ったんだってば。あんたなんて助けに行くわけないじゃん」
 そう言えばこの前、中野に呼び出されたとき、茜は助けに来てくれなかった。それは渡辺があの場にいなかったから。彼女の言うとおりだ。僕は何を勘違いしていたんだろう。
「わかった? もう二度とこんなことやめてよね。あんたに告られたなんて最悪。皆に知られたらなんて言われるか」
 幸也は今すぐ逃げ出したい気持ちだったが、最後のプライドだけでその場に立っていた。
「そう、だったんだ。ほんと、ごめん」
 目の前が急に歪みだした。
 涙だ。
 幸也は泣いているのを見られたくなくて、その場から駆けだした。
「あ、ちょっと」
 茜が呼び掛けるのを無視して、校舎内に走り込んだ。階段を一気に駆け下り、勢い余って二階の階段で足を滑らせた。八段ほど転がり落ちて、踊り場の床に体を叩きつけられる。その衝撃でランドセルの中身が床にぶちまけられた。もう、何なんだよ。幸也は転んだ痛みよりも散々な自分の運命を恨んでいた。
 泣きながら一人、ランドセルの中身を拾い集める。
「おい」
 上から声がした。
 見上げると目の前に中野が立っていた。
「何かあったのか?」
 中野はめずらしく一人のようだった。幸也は目を擦って涙を隠した。
「何でもない」
 そんな態度を取ればどんな目に遭わされるかは予想がついていたが、幸也にはもう何もかもがどうでもよくなっていた。だが中野は何も言わずに、一緒になって幸也のランドセルの中身を拾い始めた。意外な彼の行動を不思議に思ったが、幸也は口には出さなかった。
「……ありがとう」
 すべて拾い終えて幸也は礼を言った。
「……これまでいじめて悪かったな」
 中野は少し恥ずかしそうに口にした。
「何があったか知らないけどよ、俺にできることがあったら言えよ」
 どういう心境の変化なのか、中野がまるで別人のように温かい言葉を掛けてくる。だがその優しさが、幸也の心を決壊させた。中野の胸に縋りつき、大声で泣き始める。
「お、おい、なんだよ」
 中野はそう言いつつも引き剥がすようなことはしなかった。困った顔でその場に立ち尽くしている。中野の体は温かく、がっしりとした体つきが父親のように頼もしかった。
「うわああああああん」
 放課後の静かな校内に、幸也の泣き声が響き渡った。

「まあ上がれよ。狭いけどさ」
 中野が先に部屋の中に入って行った。幸也は「お邪魔します」と告げてその後に続く。昼間ずっと閉め切っていたのか、中はむっとするほど暑かった。玄関の上り口には、靴が二足しか置かれていない。中野が今履いていたものと、女物のスニーカーが一つだけ。入ってすぐ脇に台所があった。器が洗われないまま、流し台に積み上げられている。短い廊下を抜けると居間のような部屋があり、夏だというのにまだ炬燵が出されていた。奥にもう一部屋あるようだが、襖が閉じていて中の様子はわからなかった。
 ここは中野の家だった。部屋と言ったほうがいいかもしれない。二階建て木造アパートの一室。ここに来る途中、中野から聞いたのだが、両親は離婚していて、母親との二人暮らしだとのこと。今日は母親が夕方から仕事に出かけていて留守らしい。ここならゆっくり話ができると言うので、幸也は中野に誘われるまま彼の家にやってきた。
 炬燵に向かい合って置かれた座椅子に、幸也と中野は腰を下ろした。
「ビールでいいか?」
 聞かれて幸也は思わず頷いていた。飲んだことはないが、ここは断ってはいけない気がした。
 間もなく、中野が台所からビール缶を二つ持ってきた。プルタブを開けると、洋酒とはまた違う何とも言えない刺激臭がした。あまりいい味がするとは思えなかったが、暑い部屋のせいで喉が乾いていた。幸也がそっと缶に口を付けようとしたとき、「ちょっと待て」と中野に止められた。
「乾杯が先だろ」
「乾杯?」
「ビールってのはそういうもんだ」
 中野もよくわかっていないのかもしれなかった。とりあえず言われたとおり、缶を軽くぶつけ合った。それが乾杯というものらしい。
「それで、何があったんだ?」
 ごくごくと旨そうにビールを味わったあとで中野が尋ねてきた。彼はかなり飲み慣れているようだった。幸也もビールに口を付けてみた。苦くてまずい、それが最初の印象だった。それでも無理やり喉に流し込む。
「……茜ちゃんに振られたんだ」
 幸也は言うと、さらにビールを飲んだ。沈んでいた気持ちが、アルコールによってだんだん浮き上がってくる。ははっ。
 中野はしばらく黙り込んでいた。ポケットから煙草を取り出し、火を付ける。灰皿は炬燵の上に置かれていた。この間のように、人間灰皿をやらされることはなさそうだ。
「お前も河村に振られたのか……」
 ため息をつくかのように、中野は煙を吐きだした。
「やっぱり中野くんも?」
 言ってから幸也は後悔した。
「噂になってんだな」
 中野は自嘲するような笑みを浮かべた。
「ああ、そうさ。俺も振られたんだ。それもこっぴどくな。あいつは見た目と違って酷い女だ。俺の告白に『冗談やめてよ』って汚いものでも見るような目で言いやがった」
「僕だってそうだよ」
 思い出すと胸が痛くなる。あれだけ言われたというのに、まだ自分は彼女のことが好きなんだろうか。
 それから二人で茜についてひとしきり話した。そのほとんどは悪口だったが、だからこそ互いにまだ彼女のことを気に掛けているのがわかった。ビール缶が空になると中野が新しい缶を冷蔵庫から持ってきてくれた。一体、この家の冷蔵庫にはどれだけのビールが貯蔵されているのだろうと幸也は思ったが、あえて尋ねることもしなかった。
 そうして酔いが回ってきたとき、幸也の口から思わぬ言葉が飛び出した。
「茜ちゃんを次のいじめられ委員にしよう」
 中野がきょとんとした顔で幸也を見た。だが次の瞬間、「いいな、それ」と目を輝かせる。
「だが、どうやって?」
 中野はアルコールのせいで、首まで真っ赤に染まっていた。
 幸也の口が自然と言葉を紡いだ。
「夏休みが終わって新学期になったら、またいじめられ委員の投票がある。それまでに僕のクラスの子たちに茜ちゃんに票を入れるよう根回しするんだ。でも、僕が言っても駄目だと思うから、その役目は中野くんにお願いできないかな」 
 自分にこれほど悪知恵が働くとは思っていなかった。アルコールのせいで脳にエンジンが掛かっているだろう。やけにハイな気分だった。
「なるほどな。いいぜ。じゃあ俺の仲間を使って、茜に票を入れるよう、お前のクラスの連中に脅しをかけてやる」
 中野がビール缶を前に掲げた。幸也はそれに自分の缶をぶつけた。
「前祝いだ」
 中野が言った。
 そうか乾杯にはこういう意味があったのかと幸也は思った。

     六

 七月も半ばが過ぎた。蝉の声は今が最も騒がしく、教室の窓を通してうるさいほど聞こえてくる。クーラーのない教室はまるで蒸し風呂のようだ。半袖のシャツの裾が二の腕に貼り付き、気持ち悪いったらない。唯一嬉しいのは女子の背からブラジャーの紐が汗で透けて見えるぐらいだ。こういうのを嬉しく思うのは大人になった証拠だろうかと幸也は思う。身長はまったく伸びていないけれど。
 中野は上手くやってくれているようだった。毎日、昼休みになると男子が一人か二人、体育館裏に呼ばれていく。大抵はしばらくすると青ざめた顔で戻ってくるが、たまに顔に痣を作って戻ってくるやつもいる。きっと中野の頼みを断ったのだろう。抵抗しても無駄だというのに。
 もちろん中野の頼みというのは、来期に行われるいじめられ委員の投票で、河村茜に票を入れろ、というものだ。それは幸也の願いでもあった。
 幸也は相変わらず毎日のように空想に耽っていた。対象は変わらないが、それは以前とは違って邪悪なものだった。思いっきり頬を引っ叩いてやったときの茜の顔を想像するのだ。定規で尻叩きなんてのもいい。白い尻が真っ赤になるところを見てみたい。あるいはロープで全身をぎゅうぎゅうに縛り付けてやろうか。プライドの高い彼女が、泣いて許しを請う場面を思い浮かべるだけで興奮してくる。
 幸也はその日が来るのを、指折り数えて待っていた。あと一か月と半分。九月まで待てば、茜を自由にできる時が来るのだ。どうせもうすぐ卒業なのだから、少しぐらい無茶をしたっていい。ああ、早く夏が終わらないかな。
 そんなことを考えながら、幸也がぼうっと授業を受けていると、教室の前の扉が突然、勢いよく開かれた。思わず、クラスの皆がそちらに目を向ける。
「きゃっ」
 女子の誰かが小さな悲鳴をあげた。
 扉の外に立っていたのは、山下進、だろうか。いや、たぶんそうだろう。以前とはまるで見た目が変わっているせいですぐにはわからなかった。あからさまな肥満児だったはずなのに、今は別人じゃないかというほどにやせ細っている。急激な減量のためか、着ている服はサイズがまったく合っておらず、ぶかぶかだった。骨が浮き出すほど頬がこけ、眼窩が落ちくぼみ、顔全体はくすんだような印象だが、目だけが鋭くギラギラと光っている。だが女子が悲鳴を上げた原因は、他にあった。
 山下は右手に拳銃を持っていた。本物かはわからないが、銃の放つ存在感は山下のギラついた目の光と相まって不穏な雰囲気を醸し出していた。算数の授業を行っていた泉先生も、黒板に数式を書く手を止め、唖然とした顔で山下のほうを見つめている。
「ひさしぶりだな、みんな」
 山下の表情からは以前のいやらしさは消え、代わりにニヒルともいうべき大人びた笑みが浮かんでいる。山下は教室に入ると、教壇に歩み寄り、泉先生と向かい合った。
「先生には悪いけど、ちょっと授業は中断だ」
「あなた……山下くん、よね。いきなりどうしたの? そんなモデルガンなんて学校に持ってきて」
 泉先生が山下の持つ銃を見やりながら、教師らしい注意をした。
「モデルガンじゃない」
 少しイラついたような口調で山下が言った。
「証拠を見せてやるよ」
 両手で銃を持ち、天井に掲げ上げる。
 次の瞬間、銃声が響き渡った。
 だがそれもすぐに女子たちの悲鳴でかき消された。山下の撃った弾は、天井に小さな穴を開けただけだったが、拳銃が本物であることを証明するには十分だった。
 教室中が騒然となる。波のように悲鳴が広がった。
「黙れっ! 静かにしろっ!」
 山下が叫んだ。生徒たちに銃を向ける。
「誰も席を立つな! 立ったヤツは、ぶっ殺してやる」
 教室の中は、水を打ったように静まりかえった。生徒たちが不安そうな視線を、山下に、そして泉先生に送っている。だが、泉先生は腰を抜かしたように、教壇の椅子に座り込んでいた。目の前に起こっていることが信じられないらしく、ぽかんとした表情をして固まっている。
「おい、そこのお前。扉に鍵を掛けろ」
 山下がクラスメイトの一人に命令した。
「え……僕が?」
 いきなり指名され、その男子はうろたえた声を出した。ほとんどしゃべったことはないが、藤木というおとなしめの生徒だ。
「早くしろっ」
 銃口を向けられ、藤木が席を立った。よたよたと鈍い動きで教室の前後にある扉の鍵を内側から閉めていく。
「さて……それじゃあ始めるか」
 何を始めるつもりだろう。幸也は事の成り行きを見守っていたが、山下がこれから行うことにはある程度予想がついていた。山下が自分を恨んでいないはずはない。あれだけぼこぼこに殴られら、誰だって――。
「菊池ィー!」
 山下が幸也を呼んだ。
 そらきた。
 いじめられ慣れているせいか、こんなタイミングで名前が呼ばれたというのに、幸也はそれほど不安を感じなかった。少なくとも、殺されることはないはずだ。ほんの少し、苦痛を我慢すればいい。
「……はい」
 それでも幸也は不安そうに見えるよう小さな声で返事をした。
「前に出て来い」
 逆らうことはできなかった。今も幸也はいじめられ委員なのだ。そして、山下もこのクラスの一員には違いなかった。
 先ほど扉に鍵を掛けさせられた藤木よりも緩慢な動きで、幸也は前に進み出た。
「あの……何かな……?」
 幸也が尋ねると、山下は「はあ?」と睨みながらいきなり銃底で幸也の顔面を殴りつけた。
「ふざけんなよお前。まず謝るのが筋じゃねえのか」
 幸也の鼻から血がポタポタとこぼれ落ちる。
「ご、ごめん……」
 鼻を押さえながら幸也が口にする。
「まあいい。今日はお前とゲームをしようと思ってんだ」
 ゲーム……。中野たちがするような、幸也をいじめるためのゲームだろうか。それぐらいなら、これまで何度も受けてきた。大したことない。ない、はずだ。
 幸也はそう自分に言い聞かせていた。
「菊池。お前、この教室に嫌いなヤツはいるか?」
 山下が訊いてきた。
「い……いないよ」
 お前だ、と言えるはずもなかった。
「俺はいるぜ。この教室のヤツ、全員が嫌いだ。嫌いでたまらない。このクソみたいな制度に従っているこいつらが。半年前のこと覚えてるか? 俺はお前ら全員にいじめられた。いじめられまくった。いじめられ委員に選ばれてな。それだけじゃない。お前は知らないだろうが、毎年、半期に一度はいじめられ委員に選ばれてる。この六年間、俺はずっといじめられてきたんだ」
 そうだったのか。どうりでしつこくいじめてくるわけだ。きっと自分のようないじめられ委員は、山下にとってガス抜きの役割を果たしていたのだろう。おかげで彼の精神はなんとか均衡を保っていた。それなのに。
「でも、お前はいじめてた俺に殴り返した。そんなこと、俺はこの六年間一度もできなかったってのに。だから俺は、お前のことを少しは評価してるんだぜ。この教室にいる他のクズどもよりほんの少しだけな」
 そう言われても。幸也は突然褒められ、困惑するばかりだった。
「……話が長くなった。そろそろ始めるか」
 山下が生徒たちを睨みつけた。
「これからお前ら一人ひとり前に出てきてもらう。それで、男子は幸也の靴を舐めるんだ。そうだな、女子には菊池にキスをしてもらおうか。もちろん口にだ。できなかったヤツには罰ゲームだ」
 幸也を使ってクラス全員に復讐をする。山下の要求は予想外のものだった。罰ゲームが何かはわからないが、おそらく自分が受けた以上の屈辱か、あるいは苦痛を与えるに違いない。
「そんなことできるかよっ」
 そう言って立ち上がったのは、サッカー部のキャプテンをしている立川だった。背が高く、顔立ちも整っていて、いじめとは無縁に生きてきたような奴だ。それだけにプライドが許さないのだろう。
「どうしても、か?」
 山下がニヤリと悪魔的な笑みを見せる。
「あ、ああ」
 たじろぎながらも、立川は答えた。
「そうか」
 次の瞬間、ありえないことが起こった。轟音とともに立川がいきなり後ろに倒れたのだ。彼の額には穴が開いていた。山下の持つ銃口から小さく煙がたなびいていた。
 静まり返っていた教室を再び悲鳴が包み込んだ。今度は涙声も混じっている。
「なんてことを……」
 幸也は信じられない思いだった。いじめられ委員は一般生徒のストレスの発散となることが主な役割だが、委員以外の生徒にいじめが及ばないようにするための係でもある。殺したのも殺されたのもいいんではない一般生徒だとは何という皮肉だろうか。
 ともかく、これで山下は文字どおり、脱落者の烙印を押されることになるだろう。あいつは脱落者になるのが怖くないのか。
「うるせえんだよお前ら! 死にてえのか!」
 山下は先ほどよりもあきらかに興奮していた。やはり彼にとっても、殺人という行為は一線を越えていたらしい。
 銃口を向けられ、再び教室は静かになる。小さな嗚咽の声だけを残して。
「泉先生どうしたんです。何ですか今の音は?」
 声とともに、教室の扉がガタガタと動いた。誰かが外から扉を開けようとしているのだ。声音からして、男の先生の誰かだろう。この騒ぎを聞きつけ、様子を確かめに来たらしい。
「何でもないと言え」
 放心状態の泉先生に銃口を突きつけ、山下が言った。
「な、何でもありません」
 震える声で、泉先生が外の声に答える。
「じゃあどうして鍵を掛けてるんです。ここを開けてください」
 声は諦めそうもなかった。激しい炸裂音が二度も響いたのだ。心配しないほうがどうかしている。
「しつけえんだよ」
 三度目の銃声が鳴った。
 扉に小さな穴が開いた。「うわっ」という驚きの声と、慌ただしい物音が扉の向こうから聞こえてきた。貫通した弾は外にいる先生には当たらなかったようだが、銃を持った人間が教室内にいることを伝えるには十分だったろう。外にいた誰かは、扉付近から避難したらしい。これで山下の邪魔をする者はいなくなった。
「そこのお前からだ。前に出ろ」
 山下にいきなり指を差されたのは、一番前の席にいた横大路という生徒だった。彼は青ざめた顔でゆっくりと立ち上がった。
「……靴を舐めれば、殺さないでくれるんだね」
 幸也の前まで来ると、横大路は山下にそう尋ねた。
「……ああ」
 山下は目の際をピクピクと痙攣させながら言った。抑えきれない興奮が、反射となって体に現れているのだ。これ以上手間取ると今にも爆発しかねない。それがわかったのか、横大路は黙って幸也の前で屈みこんだ。肩を震わせ、目に涙を浮かべて。幸也自身、やりきれない思いだった。
 何でこんなことをされないといけないんだ。靴を舐められたって、嬉しくもなんともない。こんなこと、望んでない。
 そうは思っても、言葉で拒絶することはできなかった。これは横大路だけでなく、幸也に対するあきらかないじめだった。そして、いじめられ委員はどんないじめも黙って甘受するしかないのだ。
 横大路は、はっきり舐めたのがわかるよう舌を伸ばし、幸也の靴の先をほんの少し舐めた。そうして自分の役割を終えると、幸也を睨みつけながら席に戻って行った。
 次は女子の番だった。
「隣の席の女、前に出ろ」
 山下はより不機嫌そうに言った。
「イヤッ」
 指された井上という生徒が抵抗の声をあげる。彼女はクラスの学級委員長をしていた。眼鏡を掛けていて地味な印象だが、授業中に騒いでいる生徒がいると男子であろうと構わず注意をする気の強い女子だった。
「……ああ、そうかい」
 底冷えする声で山下が口にする。すると井上は泣きながら席を立った。殺されるよりはマシだと覚悟を決めたのだろう。だが彼女は歩いてくると、いきなり幸也の頬に平手打ちを入れた。小気味いい音が鳴る。
「このバカ! あんたのせいよ!」
 井上は涙で目を濡らしながら喚いた。頬の痛みよりも突然の暴力に驚き、幸也は一瞬、放心状態になった。気づいたときには、井上の顔がすぐ間近にあった。キスをされた。何で。唇の柔らかい感触を感じた。目を閉じて瞼を震わせている彼女の顔が目に入る。眼鏡がなければ可愛いのに、と幸也は思った。

 ゲームはそのまましばらく続いた。男子は誰もが銃を恐れて、犬のように従順に幸也の靴を舐める。女子も口火を切った井上の行動があってか、あえて山下の命令に逆らうような生徒はいなかった。このまま惰性で過ぎていきそうな、けだるい空気が教室を満たしていた。
 殺された立川の死体は布で包まれていた。先ほど誰かが教室のカーテンを外し、死体に覆いかぶせたのだ。山下もあえてその行動を咎めるようなことはしなかった。
 どうしてこんなことになったんだろう。
 幸也は靴を舐めるクラスメイトを見下ろしながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。井上の言ったとおり、やはりこんなことになった原因は幸也にあるとしか考えられなかった。ひと月前に幸也が山下を殴ったことで、彼の心の底に閉じ込められていた復讐という檻を開いてしまったのだ。
 もし、このままこれが終わったとしても、クラスメイトたちが山下を許すはずがない。それどころか幸也へのいじめもより過酷なものになるだろう。
 もう逃げてしまおうかな。
 どこか遠くへ行きたかった。家に帰っても、がらんとしたむなしい空間が待っているだけだ。失うものは何もない。
「次だ」
 机の上に腰かけた山下が交代を告げた。跪いていた男子が幸也の前から離れていく。その肩が怒りで震えていた。もっと怒れ、と幸也は思う。どうして誰も抵抗しないんだ。そう言ってやりたかった。だが、何もできない自分にそんな権利がないことはわかっていた。
 山下は先ほどから爪を噛む仕草を繰り返している。相当、イラだっているらしい。おそらく彼は、待っているのだ。誰かが、自分に逆らうのを。
「どうした、さっさと前に出ろ」
 誰も進み出てこないことに気づいて、山下が言った。その視線の先にいたのは、河村茜だった。
「絶対にイヤ」
 茜は端正な顔に、露骨な嫌悪を浮かべていた。山下の顔に笑みが浮かぶ。邪悪な、それでいて嬉しそうな笑みが。
「河村……お前、ただで済むと思ってんのか」
 山下が机から立ち上がり、ゆっくりと茜のほうに歩きだした。
 茜ちゃんが。
 幸也は山下を止めようと反射的に足を踏み出した。だが、その瞬間、茜にこっぴどく振られたときの光景が頭に浮かぶ。幸也は足を止めた。そうだ。彼女を来期のいじめられ委員として陥れようとした自分がどうして助けようとするのか。だがそう思いつつも、心の中に苦いものが広がっていくのを止められなかった。
「さっさと前に出ろ!」
 見ると茜は山下に髪を掴まれ、教室の前に連れて来られるところだった。
「痛い。やめて!」
 茜は必死に山下の腕を振りほどこうとしていた。が、彼女の力では到底、敵わない。抵抗むなしく、強引に引き摺られていく。周囲にいる男子はその様子を眺めているだけだった。
 目の前に連れて来られた茜は、キッと鋭く幸也を睨みつけた。唇を強く噛み締め、あんたにキスなどするものか、という絶対の意志表示。
 それを見て幸也は、やっぱり僕は彼女のことがまだ好きなんだ、と思った。
「ほら、早くキスしろよ」
 図らずもひと月前と同じシチュエーションだった。山下はニヤついた顔で、手に持った銃を撫で回している。その様子は、言葉とは裏腹に茜の抵抗を期待しているようだった。
「言ったでしょ。絶対に、イヤ。そんなことをするぐらいなら舌を噛み切って死んでやる」
 茜はこの場にいたっても少しも怯えた様子を見せなかった。
 山下の笑みが深まる。
「いいだろう。じゃあ死ねよ」
 銃を持ち上げ、山下が茜に照準を合わせる。茜は強く目を閉じた。彼女の天秤は、自分の命よりもプライドに傾いたのだ。
 そのとき、幸也の中に、一気に込み上げてくるものがあった。それは理不尽な行為に対する怒りだった。止めなくちゃ。彼女を死なせるもんか。
 やめろっ。
 幸也はそう叫ぼうとした。だが声に出す前に、誰かが言った。
「警察だ! 警察が来てる!」
 そう口にしたのは、窓の傍にいた生徒の一人だった。外に警察車両が来ているらしい。教室に銃を持った人間がいると、誰かが通報したのだろう。
「何だと」
 山下が気を逸らし、窓のほうを見る。
 幸也はその瞬間を狙って、山下に飛び掛かった。
 不意を突いただけに、山下を床に押し倒すのは案外たやすかった。だが、すぐに激しい抵抗を受け、揉み合いながら床の上を転がる。銃を奪い取るんだ。必死に、それだけを思って幸也は山下の腕を掴んだ。
 鈍い破裂音がした。すぐ、間近で。
 あ。
 気づくと幸也は床の上に倒れていた。白い天井がやけにはっきりと見える。その視界の隅に、山下が映っていた。
「やってくれたな菊池」
 目の前に立つ山下は手に拳銃を持っていた。
 奪い、取れなかった。
 突如、幸也は脇腹に熱いものを感じた。と同時に激しい痛みが襲ってくる。幸也は自分が撃たれたことに気づいた。だがそんな事実に意味はない。どうせすぐに殺される。
「お別れだ」
 山下が幸也に銃を向けた。
 結局、僕がしたことは何にもならなかった。そう思うと悔しかった。
 山下が引き金を引こうとしたとき、遠くから大勢の人間が駆けてくる足音がした。警察がこの教室に向かっているのだ。
「つまんねえな。もう終わりか」
 山下は自虐的な笑みを浮かべた。警官たちが押し寄せてきたら、銃一丁ではどうにもならない。彼にもそれはよくわかっているようだった。
「じゃあな、菊池。楽しかったぜ」
 山下が再び銃口を上げた。最後に幸也を殺すつもりなのだ。
 撃たれる――。
 幸也は覚悟を決めていた。もうどうなってもよかった。ただ、茜が無事かどうかだけ気になった。先ほどから姿が見えない。生きているだろうか。生きているといいな。
 幸也は目を閉じた。
 銃声が耳の奥に木霊する。が、不思議と意識は途切れなかった。死ぬっていうのは、こういうものなのかな、と幸也は思った。まだ音が聞こえる。室内のざわめき。何かがおかしかった。
 おそるおそる目を開けてみる。
 茜の顔が目の前にあった。
「何で泣いてるの?」
 幸也の口から自然と言葉が出た。茜の頬を涙が伝っていた。
「さあ、何でだろ。わかんない」
 茜は、本当にわからないようだった。
「どうして、僕、生きてるの……?」
 脇腹の痛みはまだ続いている。やはり自分は生きているのだ。
「んー。山下が撃たなかったから、かな」
「どうして?」
「自分を撃ったから」
 茜が横目でどこかを見る。幸也は思わずその視線を追って、首を倒した。
 床に誰かが倒れていた。
 手に銃を握っていて、サイズの合わない大きな服を着ている。
 山下だった。
 そのこめかみから流れ出した赤い血が床に広がっている。山下は、自殺した、のか。
「何で……」
「当たり前じゃない。このまま生きてたって、〈脱落者〉にされるだけ。それなら、死んだ方がマシ。誰だってそう思う」
 茜の言葉は冷たかったが、どこか悲しげでもあった。
 しばらくして、救急隊が到着したらしく、幸也は担架に乗せて運ばれた。見送るクラスメイトたちの顔には怒りや悲しみではなく、何かをなくしたむなしさのようなものが浮かんでいた。

     七

 夏が過ぎた。まだ残暑は残っているが蝉の声は絶え、通りには早くも秋の気配が漂っている。
 幸也は学校を目指していた。十時過ぎという今の時間、道を歩いている子どもは他に誰もいない。幸也の脇腹にはまだ包帯が巻かれていたが、傷は塞がっていて歩くのに支障はなかった。今日は学校の始業式がある。長時間立っているのは辛いので、式が終わってから出るつもりだった。別に休んでもよかったのだが、式のあとに行われるホームルームにだけは出席したかった。なぜなら、そこで後期の委員が決められるからだ。
 夏休みを、幸也は病院で過ごした。父は着替えを届けに来たときに一度、姿を見せただけだ。学校のクラスメイトは一人も見舞いにやって来ない。唯一来たのは、中野だけだった。
 彼がやってきたとき、幸也は本を読んでいるところだった。
「よう元気か」
 中野は相変わらずの退屈そうな顔で幸也に言った。
「あんまり」
 撃たれた脇腹は、内臓は無傷だったものの、少し体を動かしただけで鋭い痛みが走る。入院はひと月で済むと医者は言っていたが、夏休みに何もせずに寝ていることしかできないのは酷く憂鬱だった。
 中野はベッド脇のパイプ椅子に腰掛け、事件後の学校の話をしてくれた。
 山下の持っていた拳銃は、モデルガンを改造したものだったそうだ。彼の自宅には大量のモデルガンが飾られていたらしい。また、事件直後はマスコミが大勢学校に押し寄せたため、あれからずっと休校状態で、夏休み前に終業式だけが行われたことも聞いた。
 それから、幸也は中野に茜を後期のいじめられ委員にはしないでくれるように頼んだ。それを聞いて中野はおかしそうに笑った。どうして笑うのかと幸也が尋ねると「もうそんなことはいいんだ」と中野は言った。
 次の中野の話は、幸也にとって意外なものだった。山下が事件を起こしたことによって、いじめ制度が見直されることになったそうだ。任期を終えたいじめられ委員があれほどの復讐に走るというのはこれまであまり例がなかったらしい。山下の事件が、いじめ制度によるリスクが大きいことを世に知らしめることになったのだ。制度は変わるか、新しくなるらしく、少なくとも復讐を生むようなものではなくなるそうだ。
 このクソみたいな世界がほんの少しだけだがよくなるのだ。そう思うと幸也は嬉しかった。学校に向かう足取りも、自然と軽くなった。自分はもういじめられ委員ではない。もう二度と、あんな役回りはご免だ。
 学校に着くと、幸也は自分の教室へと向かった。あれほどの事件があって、自分がクラスの皆にどう思われているかを考えると不安もあったが、それ以上に茜の顔を見られるのが楽しみだった。
 教室の扉の前で、ゆっくり深呼吸をする。これから自分は変わるのだ。背だって少しずつ伸びている。いつか茜に相応しい男になれる日がくるはずだ。
「――じゃあ、菊池くんに決まりね」
 扉の向こうから泉先生の声が聞こえてきた。もうホームルームは始まっているのだろう。それも、自分の委員が勝手に決められたらしい。来ていないのだから仕方ない。でも、何の委員になったんだろう。まあ、何だっていいや、と幸也は思った。いじめられ委員より悪い委員なんてあるはずがないのだから。
 幸也は扉を開けた。その瞬間、空気が凍りついたのがわかった。クラスメイトの視線が針のように突き刺さってくる。やはり幸也はクラスの中で異質な存在であるらしい。周囲の様子は努めて気にしないことにした。しばらくすれば、クラスメイトとの壁も少しずつなくなっていくはずだ。ほんのしばらくの辛抱だ。
「菊池くん。もう傷は大丈夫なの?」
 泉先生が幸也のもとにやってきてそう言った。心配そうな態で、だが必要以上に幸也の体を触ってくるあたり、泉先生はまだ幸也に執着がある様子だった。
「もう大丈夫です。あの、少し聞こえたんですけど……僕の委員が決まったんですか?」
「え、ええ。そうなの」
 泉先生は教壇の前に戻ると、幸也に席に座るように告げた。
 机の間を歩いて、教室の後ろにあるいつもの自分の席へと幸也は歩いた。顔を伏せ、クラスメイトたちとは視線を合わせないようにしていた。それでも茜のことだけは気になり、一瞬、そちらに目を向けてしまう。
 彼女は幸也に笑みを向けていた。病院の中で想像していた彼女の笑顔がそのままそこにあった。
「菊池くんも来たことだし、もう一度委員を発表します」
 幸也が自分の席に着くと、仕切り直すように泉先生が言った。
「菊池くんの委員は――」
 幸也は少し期待していた。図書委員だろうか。それとも新聞委員かもしれない。いや、いない間に決められたのだから、きっとみんなが嫌がる委員のはずだ。だとすると、生き物委員になるのだろうか。
 そんな幸也の思考は、泉先生の言葉で吹き飛んだ。
「とうごく委員です」
 教室中の皆が、わーっと一斉に拍手した。「おめでとう」という声。指笛まで吹いている生徒もいる。まるで、春の新学期に幸也がいじめられ委員に選ばれたときのような騒ぎようだった。
「ちょっと待って」
 幸也は騒ぎの間を縫って発言した。
「それって、どういう委員なんですか?」
 とうごくという字がどういう漢字になるのかわからなかった。だが、少なくともいい響きではない。クラスメイトたちが幸也に向ける視線からもそれはわかる。不幸になった人間を嘲笑うような視線なのだ。もしかしてさっき茜が向けてくれた笑顔も――。
「菊池くんにはまだ説明をしていなかったわね」
 泉先生が皆に静かにするように言った。
「とうごく委員というのは、こういう字を書くの」
 泉先生がチョークで黒板に字を書いた。

 投獄

 投げる、という字はわかる。でも、下の字がどういう意味なのかわからなかった。
「この言葉はね、悪いことをして捕まった人が牢屋に入れられたときなんかに使うの」
「え?」
 幸也は、思わず、訊き返していた。それがどう自分と繋がるのかまったく理解できなかった。
「つまり投獄委員はいじめ制度に変わる新しい制度なのよ。その名も拷問制度。ただいじめられるだけじゃ、この間の山下くんのように復讐する場合があるでしょう? だから拷問制度は、投獄委員に選ばれた人を牢屋に入れて、他の人に復讐できない状態で激しいいじめ――つまり、拷問を受ける役なの」
「うそ、だ。そんなバカなこと……」
 体が自然と震えだしていた。いじめられ委員はなくなるはずじゃ。それどころか、これだと前よりも酷くなっている。
「残念ながら本当なの。夏休みの間に校舎の改装工事をして、ちゃんと地下室も造ってあるわ」
 もう逃げられない、そのことだけはわかった。
「どうして、僕なんですか? 投票で決まったんですか?」
 訊かずにはいられなかった。いじめられ委員のときは、クラスのみんなから投票があって自分がやることになった。今回もそうなら、自分は投票に参加していないのだからやり直しを要求することもできるはずだ。
「いいえ。これは学校側の話し合いによって決まったの。それにこの委員をやるのは校内で一人だけ。投獄委員は学校中の生徒から拷問を受ける役なの。これまではクラスに一人委員がいたけど、人数が減ってより効率的になったのよ」
 ふざけてる。これは何か悪い冗談としか思えない。きっと誰かが僕を陥れようとしているのだ。でも、一体、誰が。
「私は、妥当だと思うな」
 そう発言したのは、茜だった。
「菊池くん。あなた私を後期のいじめられ委員にしようとしてたんだって。全部、中野くんから聞いたよ」
 茜の言葉で、クラス中の全員が幸也に目を向けた。その視線には、ゴミを見るような侮蔑が含まれていた。
 泉先生がいつもの口調で言う。
「そうそう。菊池くんは入院していたから知らないだろうけど、投獄委員を決めるに当たって、生徒全員に事前調査を行ったの。そしたらあなたを推す人が一番多かったわ。事前調査は参考程度にする予定だったんだけど、これじゃあ仕方ないわよね」
 目の前がぐらりと揺れたような気がした。
 何で。何で。何で。
「それじゃあ早速、委員の仕事をお願いしようかしら」
 泉先生の言葉で、クラスの男子たちが立ち上がった。幸也の席へとにじり寄ってくる。チビでノロマな自分にはとても逃げられそうにない。
 ああ、もうどうにでもなれ。
 
     八

 体中が痛い。喉が乾いた。焼けつくようだ。だがいくら欲しても、目の前には暗闇しかなかった。
 幸也がいるのは、学校の地下に造られたコンクリートで囲まれた空間だった。全裸のまま、立った姿勢で、壁から伸びた鎖に手足が繋がれている。
 連日、大勢の生徒が幸也のもとにやってきた。地下室は思いのほか広い空間で、空調設備も整っており、気温や湿度は完璧に保たれている。もちろんそれはすべて幸也のためでなく、部屋を訪れる生徒のために用意されたものだった。壁には何本もの鞭が掛けられていて、最初のうちは毎日休む暇なくそれで打たれ続けた。幸也の全身には今もみみず腫れの跡が無数に残っている。
 しばらくすると、鞭には飽きたのか、拷問方法もバラエティに富んできた。ホースによる水責めから、ライターを使った火炙り、指先に何本もの針を刺されることもあった。恐怖と、苦痛の毎日だった。
 なかでももっとも最悪だったのが、音責めだった。頭にヘッドフォンをガムテープで固定され、大音量の音楽を流され続けたのだ。それもずっと同じ曲を。夜中もずっと延々と。そんな最悪の責め苦を考え付いたのは中野だった。「こんな静かな場所じゃ寂しいだろ」と言って。
 だが今ではその中野もやって来なくなった。あいつは退屈が嫌いだが、飽きるのも早いのだ。
 ここに入れられて、どれぐらい経ったのだろう。
 日ごとに自分の感情が擦り減っていくようだった。拷問を受けても悲鳴をあげる気力すらなくなってきている。おかげで最近はやって来る生徒も減ってきていた。反応がないのでつまらないのだ。毎日やってくるのは、食事を運んでくる用務員のおじさんぐらいのものだった。
 遠くから、足音がした。段々と近づいてくる。誰かやってきたらしい。食事の時間にはまだ早い。時間はわからないが、それぐらいなら腹具合で幸也にもわかった。
 扉が開き、暗い地下室に光が差し込んだ。思わず幸也は目を瞑った。暗闇に慣れ過ぎて、地中に住むモグラのように光に怯えるようになっていた。
「本当に、こんなところでするのかい?」
 男子の声がした。聞き覚えのある声だ。
「ええ、もちろん」
 今度の声は誰なのかすぐにわかった。
 茜ちゃんだ。
 声を聞くのは本当にひさしぶりだった。あれから茜は一度も地下室に来ていない。拷問なんかには興味がないのだと、そう幸也は思っていた。なのにどうしてここへ。僕をいじめにきたんだろうか。
 だが、茜の目的は幸也への拷問でないことはすぐにわかった。
「だってここなら扉の札を使用中にしとけば誰も入って来ないでしょ。それに暗いしちょうどいいじゃない」
 茜の声は弾んでいた。
「でも……ここには菊池がいるんだよ」
「いいじゃない。どうせ暗くて見えないわよ」
 扉の閉じるほんの一瞬、茜と一緒にいる男子の顔が、幸也の目に入った。
 四組の、渡辺だった。
 茜が好きだと言っていたあいつが、彼女と一緒にいる。幸也の頭は混乱した。つまり、二人は付き合っているのか。じゃあ、今からここですることっていうのは……。
 最悪の想像が、幸也の頭に浮かぶ。が、それはすぐに現実のものになった。暗闇の中では二人が何をしているのかわからない。だが音だけで何が起こっているか手に取るようにわかった。服が擦れる音。荒い呼吸音。粘膜が立てる音。自分の好きだった女の子が別の男に抱かれている音が、塞ぐことのできない耳に途絶えることなく聞こえてくる。
「……いい、加減にしろよ」
 小さく幸也は呟いた。が、効果は絶大だった。二人が動きを止め、幸也の様子を窺っている。その、気配がする。きっと彼らは連日の拷問で、幸也にはもう声を出す元気もないと思っていたのだろう。はっ。
「オマエラぶちっ殺してやるううううゥゥゥゥゥ!」
 幸也は手足の鎖を引き千切りそうな勢いで前に出た。鎖が激しく音を立てる。
 突然の幸也の怒声に肝を潰したのか、二人は悲鳴を上げて、服を着る暇もなく慌てて地下室から逃げて行った。扉を出て行くとき、茜の白い尻が見えた。
「ははっ。はははははははっ。ざまあみろっ」
 幸也は笑った。笑い続けた。慌てて逃げていく二人がおかしくて。笑った。笑いすぎた。目から何か熱いものが床に落ちた。

「ねえ、先生」
 幸也は暗闇の中、泉先生に尋ねた。
「なあに?」
 泉先生は、幸也の首に背後から抱きつくように手を回している。裸のせいで、背に乳房の当たる感触が伝わってくる。
「僕、そろそろ卒業じゃないのかな」
「そうね」
 満足したような艶のある声で泉先生が答える。
「いつになったら、外に出れるかな」
 あれから、半年ぐらいは過ぎている。泉先生は、もうほとんど誰もやってこなくなった地下室に週に一度ほど通っては、幸也の体を求めていた。
「菊池くん」
 泉先生が、幸也の首筋に吐息を吐いた。
「あなた、ここから出してもらえるわけないでしょう」
 うん。だと思ったよ。
 もう、涙は出なかった。

     (了)

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